書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

感覚とか印象とか。

 誰かを見て感じる感覚、とか、印象、って何なのか?と考えた時に、それは、相手の潜在意識なのではないか、と思うのです。

 自分で「自分はこういう人間だ」と意識しているそれは、顕在意識なので、本当の自分の実像ではありません。自分の本当の実像は、潜在意識で把握しているものだけれど、潜在意識は自分では知覚できません。残念ながら。だから、本当の自分の実像は、自分では把握できない、という事になるのだと思います。

 でも不思議なことに、他人の潜在意識は、何故か感じ取る事ができるのですよね。自分のは分からないのに、他人のは分かる。私の、私自身では把握できない潜在意識を、他人は何となく感じ取ってしまう。

 他人の潜在意識を、何となく感じ取ったもの、それが感覚、とか、印象、というものなのだと思います。

 でもその感覚とか印象を、いざ言葉にしようとすると、微妙にズレが生じるのです。言葉は事象を便宜上置き換えたものなので、あてはまらない事象もあるからです。ピタッとあてはまらないので、近い言葉をあてはめてしまうと、それは自分が感じ取ったものとは、微妙に違うものになってしまう。微妙な違いって、結構大きい。

 だから、相手の潜在意識をそれとなく感じ取った場合でも、それを相手に指摘する事は困難です。相手が「私はこういう人間」と口にしていることと、自分が相手の潜在意識から感じ取った印象は、全く異なるものであっても(というか、異なるものである事がほとんどですが)、それを相手に告げる事は不可能です。自分の感じ取ったものを言葉にできないから。

 感覚、とか、印象、とかは、キッパリスッパリ言葉にできない曖昧なものですが、曖昧だから無意味だと切って捨ててはいけない、と私は思っています。

 なぜなら、感覚、とか、印象は、言葉にはできないけれど、それを元に行動する事はできるからです。

 相手が自分自身の事をどう把握し何と表現していようと、私が受けた相手の印象のほうを信じて、相手と付き合っていくのが安全だと、私は思っています。

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 例えば、「私は批判されても気にしない人間なの」と言っている人がいたのですが、私がその人から受け取る印象は、「批判されたらキレるだろうなあ、この人」でした。真逆。

 なので私はその人とお付き合いする時は、間違っても批判的なニュアンスにはならないように、いつも以上に気を付けました。ので、トラブルにはなりませんでした。でも、彼女の言葉を真に受けて、結構ズケズケ彼女に対して意見していた人は、彼女から激しく仕返しされていました。おおお。。

 彼女は常々「人は一人一人違うのだから、それぞれ意見が異なるのは当たり前。人間の数だけ正解があるのよ」と言っていて、「だから私は批判されても気にしないの。ああ、あの人の正解と私の正解は違うのね~、と思うだけ」と言っていました。理屈で考えればそうなります。彼女は顕在意識で、そう把握しているのだと思います。だからこそ「私は批判されても気にしない人間」と自己評価している。

 でも、彼女の知覚できない彼女の潜在意識は、「私はいつだって正しい」という考えを持っていて、だから、否定されると反発するのだと思います。

 不思議なのは、この顕在意識と潜在意識の食い違いを、人は何故か無視するのですよね。知覚できない。把握できないのです。言ってる事とやってる事が違う、ということは誰にでもあることで。勿論、私もそうです。何故なんだろう。不思議でなりません。

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