書くしかできない

過ぎていく日々を書き留めています

どう使うかは自分次第

 先日の桜井識子さんのブログに、こういう事が書いてありました。勝手ながら引用させて頂きます。

人間はニュートラルな存在です。 

 「神仏」という善の存在と、「魔」という悪の存在の中間にいます。 

善でも悪でも、どちらの方向にも行ける……それが人間なのです。 

私たちの体ですが、自分の体ですから自分のものだと思っています。 

どう動かそうと自分の勝手、私のもの、俺のもの、という意識だと思いますが、実はそうではなく、体は借り物です。 

死ぬまでの間、天からお借りしています。 

体がなければ、魂はこの世でさまざまな経験をすることができないからです。

そして、借りているその体で、自分という人間を表現します。

手も足も口も、すべてをどう使うかは、本人次第です。 

 悪いほうにも、良いほうにも使えるからです。 

 面と向かって人に「どうしてわからないの! バカなの!」と、言ったとします。 

 相手はムカッとします。 

 〝人を嫌な気持ちにさせました〟ということを一つ、この世に残して死ぬことになります。 

 同じ口ですが、違う使い方をすると……。 

 「晴れてよかったですね、おめでとうございます」と、神社でたまたま遭遇した花嫁さんを祝福することができます。 

 花嫁さんはとても嬉しい気持ちになります。 

 〝人をあたたかい気持ちにさせました〟という行為を一つ、この世に残してあちらの世界に帰ることができます。 

 このように、体も口も、悪の方向にも、善の方向にも、どのようにでも使うことができます。 

 それが人間なのです。 

 「魔」のほうへ進んでいくのか、「神仏」のほうへ進んでいくのかは、自分で決められます。 

どう行動したか、何を言ったかによって、自分という人物が決まってしまいます。 

 天からお借りしている、ありがたい、大切な体です。 

 悪い方向で使用するのではなく、できるだけ良い方向で使うよう心がけると、意識していなくても、神仏に寄り添った人生を歩んでいくことができます」

 

 どうってことのない(失礼)、よく聞く「良いお話」です。ですが、何故か、桜井さんが書かれると、「うん、そうだな」と納得できるのが不思議(笑)。これがファン心理というものでしょうか。

 桜井さんは、この記事の一つ前に、街で出会った「悪い行動をしている人達」について書かれていました。一人のママ友を仲間外れにして喜んでいるママ達、バスで傍若無人にふるまって周囲を不愉快にしている人達。それに対して、「モラルが無い人は残念ですよね」的なまとめをされるのかなあと思っていたら、上記の文章が綴られていたのです。

 別にモラル違反とか、人としてどうなの?とか、そういう観点ではなく、この体自体が借り物だから、丁寧に使ったほうがいいと思うよ、という視点から書かれたわけです。人としてどうなの?という観点から書くと他者批判になりますが、この体は借り物、という視点から書くと、自分の考えをただ述べる、という事になります。さすがだな、と思いました。

 私も、何かに対して疑問を感じた時は、こういう風に思考すればいいのだ、という事を教えてもらった気がします。

 そして、体は借り物、という考え方。当然、「脳」すらも借り物、という事になります。物事を感じ考えているこの「脳」すら、自分のものではない、という。では、私は何か?という事になりますが、これについて書かれた本もいくつか読みましたが、「脳」=「自己」という風に解釈すると、「自己」自体が存在しなくなるそうです(またこれについては別記事に書きたいと思います)。

 やはり、「脳」以外に、「魂」が存在するのではないか、と私は思います。そして、その「魂」=自己なのではないかと。

 そういう風に考えると、上記の桜井さんの文章が、納得できるのです。。

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