書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

人生の失敗。

 堕胎を二度経験された方が、こんな主旨の事を書いておられました。

「私は、当時の彼氏から捨てられたくなかった。彼氏に依存していたから。だから子供を産みたいと言えなかった。言えば捨てられると思ったから。私はそんな自分を責め続けて生きてきた」

 その方は、いかにご自身がご自身を責めて生きてきたか、について、切々と語っておられました。気の毒になあと感じました。でも、何かがずれている、とも感じました。

 その方が反省すべき点があるとしたら、それは「堕胎した」事ではなく、「避妊しなかった」事だからです。産めないと分かっているのに何故避妊しなかったのか、その理由を、自分自身でキッチリ逃げずにあぶり出せば、今後の人生で、同じ系統のミスを犯し苦しむ事はないと思うのです。

 でも、その方は、「避妊しなかった」点はスルーし、「堕胎した」点だけにフォーカスしておられるので、根本的な部分で、何も変わっておられないのだなあと感じました。その方は、「人から強く求められる事」依存症になっているように、私には感じられました。

 人から強く求められるには、何らかの卓越したものを持たねばなりません。それは、能力だったり、容姿だったり、財力だったり、人間性だったり、様々ですが。とにかく、凡庸ではなく卓越した何かを持たねばなりません。

 卓越した何かを持たない、ごくごく凡庸な(私のような)人間は、人の中でもまれながら浮いたり沈んだりして生きていくわけです。凡庸さの中に諦観を見出し、生きていくしかないのです。

 でも、凡庸なのに、人から強く求められたい、という欲望を持ってしまうと厄介で、持っていないのに持っているフリをせねばなりません。能力がないのに、能力があるフリ。強くないのに、強いフリ。多くの誤魔化し。多くの嘘。「人から求められる」快感を得る為に、無理を重ねてしまう。無理は続かないので、いずれ失敗する。

 私は、「堕胎」という行為自体は、悪い事だとは思いません。どうしても避妊できない状況で(レイプなど)妊娠してしまった時などは、堕胎は罪ではないと思います。堕胎自体は罪ではないけれど、避妊できるのに避妊しなかった、という事は、よくないことだと思います。

 何故なのか分からないのですが、人は、「堕胎した」的な人生の失敗は、わりと言えるのです。でも、「避妊しなかった」的な人生の失敗は、認める事ができないように思います。「堕胎」にはどこか悲劇性があり、偶発性があり、同情される余地が残っていますが、「避妊しなかった」には言い訳の余地が全くないからだと思います。

 本当は、「避妊しなかった」的な人生の失敗をこそ、しっかり自分で認め、自分を変える意識を持てば、同じ失敗を繰り返す事はなくなるので、人生は良い方向に行くように思います。

 今日はなんかお節介くさい事を書きました。すみません。

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