書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

いちからの子育て記録3

 子育て記録を引き続き書いています。

 帝王切開で出産し、産後10日間入院後、実家に10日間お世話になり、逃げるように家に戻った、という所まで前回書きました。今回はその続きになります。

 今回は、息子の事ではなく、私の体調について書く事になると思います。というのも、生後すぐから半年ぐらいの間は、息子は、極端に育てにくいということはなかったからです。体の柔らかいこともお乳を飲むのが下手なことも、慣れてくればなんとかなったし、アレルギー体質で鼻水が酷かったのも随時私が口で吸ってやればなんとかなった。また、同じくアレルギー体質で、アトピーだか乳児湿疹だか分からないブツブツが顔に大量に出ていたのも、皮膚科医塗り薬を処方してもらい、これもなんとかなった。

 なので、生後半年までの息子は、普通の新生児でした。夜中に何度も起きて授乳しなくてはいけない、とか、何で泣いているのか分からない(お腹も一杯、おむつも綺麗、、、と泣きの原因が分からない)とか、そういう大変さはありましたが、それらはすべて、普通の育児の大変さだったと思います。

 生後半年までのこの時期、記憶に残っている特別な大変さは、私自身の体調不良でした。症状としては、大きく分けて3つで。

 一つ目は、腱鞘炎です。もともとリウマチの気をもっているので、そのせいもあるのですが、やはり、だらだらぐにゃぐにゃした息子の体を、お世話のたびに抱いたりあやしたりするのは、腕や指に変な力を入れ続ける事になります。落としたら大変と神経を使いますし。また外出時は重いA型ベビーカーが必須で(体がぐにゃぐにゃなので抱っこだと危ない)、それの持ち運びで腕や指を酷使したという事もあります。当時、私の住むマンションの入り口は、お洒落な長い階段があったんです(今はスロープに変わりました)。マンションの出入りのたびに、よっこいしょっと赤ちゃんごとベビーカーを持ち上げて長い階段を運ばねばならず、ものすごく大変でした。これも、転んだら大変、ととても神経を使いました。上りより下りのほうが怖かったです。

 プラス、産後のホルモン変化や、極端な睡眠不足も重なって、ある日、朝起きたら、指が動かなくなっていました。まったく動かないんです。

 起きたのは、息子の泣き声にせっつかれて、でしたので、すぐに息子のベビーベッドに行って、抱き上げてやらねばなりません。なのに、指が動かないのです。指が動かないので、息子を抱き上げる事ができません。息子のベッドの横で、どうしよう、どうしよう、とおろおろしました。どれだけ焦っても、指に渾身の力をこめても、両手の5本の指は、まったく動きません。神経が通っていないかのようでした。

 泣きわめき続ける息子のそばで、おろおろする事30分。少しづつ指が動き始めました。一ミリ、二ミリ、と動くようになり、こすったり温めたりしてなんとか少し動かせるようになって、こわごわ最低限の息子のお世話をしました。

 その日のうちに、息子のA型ベビーカーを押して近所の整形外科に駆け込みましたが、色々検査はしてもらったものの、「腱鞘炎ですね」の言葉と、痛みどめの塗り薬を貰ったのみ。痛いとかどうでもいいから、とにかく普通に動くようにして欲しかったのですが、それは無理なようでした。

 それからどうしたのか全く覚えていないのですが、息子を死なせずにすんでいるという事は、なんとかしたのだろうと思います。覚えているのは、毎朝30分早めに起き、ベッドの中で動かない指をこすり、少しづつ可動域を広げる作業をしていた事。そうやってごまかしごまかしやっていると、少し動くようになったからです。朝いちが一番動かなくて、夕方にかけてだんだんマシになっていくので。

 腱鞘炎は、ずいぶん長く続きましたが、息子が歩くようになった1歳半以降は、少しづつ治っていきました。腱鞘炎をもっていると、明日朝起きたら全く動かなくなっていたらどうしよう?という恐怖で、毎日不安でした。私の場合、身内に頼れないという事情があったので、余計でした。

 二つ目の体調不良は、帝王切開手術の傷痕が、なかなか治らない事でした。外科手術を受けたわけなので、本来は一カ月間安静にしていないといけなかったのですが、私の我儘で、実家を出て家に戻ってしまったので、安静にできなかったのです。21日目から普通に家事をし、買い物に行き、新生児育児をしていました。動きまわっていたので、治るものも治らない。傷痕はいつまでもじくじくとして瘡蓋にならず、縫った痕は赤く腫れて盛り上がり、いつまでもガーゼが取れませんでした。動くと傷痕がずれて痛いし、お風呂にも入れないし、毎日の消毒も面倒で、いい加減気が滅入りました。ばたばた動いていて、縫った所をテーブル等にこすってしまうともう、、、、痛さに息が止まる感じで。

 プラス、下からの悪露もなかなか止まらず、いつまでも出血を続けていて、これもしんどかったです。結局、傷が治るのに二年ぐらいかかったと思います。そもそも帝王切開の手術は、皮膚の表面と、子宮と、二重に切るので、治りにくいそうです。子宮は産後少しづつ縮んでいくので、傷口も縮むのに合わせて動く事になり、なかなかくっつかないそうで。産後は、安静にできるなら、安静にするにこした事はない、と痛感しました。

 三つ目は貧血です。もともと、妊娠時からずっと続いていた貧血がひどくなった事。悪阻が10か月続いていて食事がとれなかった事と、産後はものすごくお乳が出てしまって、母乳はそもそも血液なので、一日中くらくらしていました。立ち上がると必ずフラッとするので危なくて仕方ない。一生懸命ごはん食べましたけれど、食べても食べても間に合わない。どんどん痩せていきました。

 私はつくづく妊娠に向いていない体質なようで、出産時の体重が、妊娠前と同じだったんですよね。つまり、赤ちゃんの体重プラス胎盤プラス子宮内の水の重さ分、体重が減ったという。で、産後、減った体重がますます減っていったという、、。

 というわけで、産後から生後半年までの間の私は、腱鞘炎で指が動かず、お腹の傷口はいつも腫れてじくじくして痛く、下から悪露が止まらず、貧血でフラフラしていた、という感じです。今書いていても、悲惨だったなあと思います。

 そんな中、お宮参りいに義実家の方々が我が家に来て下さったので、その接待もしつつ行事もこなし、、。ああ思い出してもしんどい。体のしんどさより、気遣いのしんどさのほうが上だったかも。狭いマンションに義実家の方々がワーッと来られて、いつものリビングでは授乳できず、寝室で授乳していたら、そこまで義実家の方々が入ってこられてとても嫌だったのを思い出します。

 何度も書いていて恐縮ですが、息子はお乳を飲むのが下手で、片手間でさっさと飲ませる事が不可能だったので、私は胸を全開にして息子が飲みやすい角度を探し探しやらないと飲ませられなかったんですよね。

 お乳を上手に飲める健常児の赤ちゃんの場合は、授乳中、お母さんが赤ちゃんの上にカバーのようなものをかけて胸を隠せるので、人前でも最悪授乳できるのですが。息子の場合は、お乳を飲んでいる息子の様子を私がしっかり見ていないと、すぐに口から乳首が外れてしまうんです。息子の顔の角度に合わせて私も体を動かしてやらないといけない、というか。息子の上からカバーをしてしまうと、息子の様子が見えないので、授乳中はずっと、胸は全開丸出しにせざるを得ないのです。

 しかもぐずぐずやっているうちにバスタオルの鎧がほどけてくるので、また広げてぎっちぎちに包み直さなくてはいけなくて、授乳にとても時間がかかる。一回の授乳で最低でも一時間はかかる。授乳だけでなく、その後ゲップさせたり、おむつ変えたり、汚れたら着替えとかちょっとその辺拭いたり、もろもろ消毒したり、寝かせつけるまでやってると、あっと言う間に1時間かかってしまうんです。これが実家の母を怒らせた一因にもなったのですが、飲むのが下手だからしょうがないんですよね。私も、授乳に時間がかかり過ぎるのが嫌で嫌で仕方なかったけれど、精一杯要領よくやっても、時間がかかってました。だから、義実家の方々も、リビングで赤ちゃんを待っているのに飽きてしまって、寝室まで様子を見に来たのだと思います。赤ちゃん見に来たのに、赤ちゃんがいないなんて、話にならない、みたいな理屈でね。

 本当はリビングのリクライニングシートで専用のクッションを二段重ねにして飲ませるのが一番息子も飲みやすく私もラクなのですが、リビングは義実家一家が占領しているから、仕方なく寝室の慣れないベッドで飲ませていたんですよね。へんな体勢だから、お腹の傷口にもろ息子の体重が乗って痛いし、飲ませずらいからなかなか飲まないし、無駄にお乳が飛び散るし、私は胸を全開に出しているから不安だし、という状況で、義実家の方々が、ぞろぞろ寝室にやって来られた、、、、。私は指が固まっているから、すぐに隠せず胸は出しっぱなし。ああ、溜息しか出ません。私は見世物じゃないんだ、と思いました。母親は胸見られても笑ってなきゃいけないのか、と思いました。泣いたり怒ったりしちゃいけないのか、って思いました。ほんと、すごく。まあ、泣きも怒りもせず、静かに淡々と対処しましたが。

 なんか産後はほんと、辛かったり痛かったり傷ついたり悔しかったり、そんな事が沢山あったなあと思います。

 みんなお祝いに来てくれた事は分かっていたし、感謝もしていたけれど、でも、息子の誕生にかこつけてはしゃぎたいだけなんじゃないかと、感じてしまいました。今思うと、ただただ色々間が悪かっただけなのだと思います。そういう時期だったのだと。誰も悪くない。義実家の方々も、息子が発達障害だなどとは知らないわけで、普通の赤ちゃんだと思っているから、ああいう感じになってしまっても仕方ないと思うのです。

 また、悪い事ばかり書いていますが、この時期、良い事も沢山ありました。やはりなんといっても、息子は可愛かったのです。新生児の愛らしさ、あどけなさ、いたいけさ、私だけを頼るその小さな体がいつも傍にある事は、とても心を和ませる事でした。

 息子を産んで私は本当に、ああ、一人じゃないんだ、という事を実感しました。心の奥のほうで、しっかりとした満足感のようなものが、いつもありました。授乳は大変だったけれど、それでも心満たされる時間でもあったのです。ずっと後で、授乳中は、飲んでいる赤ちゃんにも、あげている母親にも、オキシトシンという穏やかな幸福ホルモンが分泌されていると知って、なるほど、と納得しました。あの頃の私は、そのオキシトシンに包まれて、穏やかな幸福の中にいられたのだと思います。

 更に言えば、息子は、天使のように愛らしかったのです。これは発達障害児あるあるで、発達障害児は時々、とてつもない天使がいるのです。その可愛らしさというのは、目鼻が整っている、という事だけではなく、独特の、この世のものとは思えない、見る人に「愛しい」という気持ちを自然に起こさせる、そういう愛らしさなのです。散歩していると、ベビーカーをのぞいた人は必ず、「まあ、かわいい」と驚かれますし、もう少し大きくなってからは、連れて歩いていると、時々、子供モデルにスカウトされました(自慢を書いてすみません)。子供の笑顔は本当にかわいいものですが、息子の笑顔は、胸を突かれるような切実さがありました。切なくなるほどの愛くるしさなのです。それは、発達障害児特有の心の素直さや、嘘がつけないまっすぐさ、そういう、純粋さそのものの象徴のような、純粋さが照り輝いているような、そんな笑顔です。

 親馬鹿はこのへんにしておきます、、、。

 そんなこんなで、生後半年までは、しんどい事も多かったですが、心穏やかに満たされていた時期でした。

 次回は、生後半年以降の息子の事を書きます。

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