書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

いちからの子育て記録2

 引き続き、私の子育て記録を書いています。

 出産は帝王切開だったので、産後10日間、産婦人科に入院し、すでにその時から子育ての違和感は発生していた、という事は、前回書きました。今日はその続きです。

 産前と産後で、私の周囲の人間関係は大きく変わりました(悪い方へ)。

 産前の私は、楽天的で他人を簡単に信用する人間でした。が、産後、なんだかんだで傷つく事、苦しい事が多く、だんだんと人を信用できなくなっていきました。

 たとえば。

 帝王切開手術で出血が多かった私は、出産当日は点滴に縛られて寝たっきり。翌日やっとベッドに座れるようになり、その日、母が病室にお見舞いに来てくれました。私は、少し動けるようになった事が嬉しく、「顔色もマシになったでしょ?」と母に言うと、母から「全然マシじゃない。顔色どす黒いよ」と言われました。その後も母は、ベッドの脇にどかんと座って私にあれこれ駄目出しをし、そして帰っていきました。

 ベッドに座れるようになったとはいえ、まだ自由に歩けるには至っていなかったので、自由に動ける母に、できたらペットボトルの水を買ってきてもらうとか、色々頼みたい事があったのですが、頼めるような空気ではなかったのです。

 母がどうして機嫌が悪かったのか、今考えるに、私は早産の気があって出産にさかのぼること一カ月前ぐらいに一度入院し、その後退院はしたものの絶対安静の為、家の中の掃除が全くできていなかったのですね。かろうじて食事は作ったけれど、あとは予定日まで寝て過ごし、予定日の数日前に帝王切開するという段取りでした。

 どういう用事か忘れたのですが、母が私の家に行ったそうで、家が汚かったのが許せなかったようです。

 あと、産後は一カ月ほど、実家にお世話になる予定だったので、今から思うと、母はそれも嫌だったのかもしれません。娘と孫の世話をするのが億劫だったのかも。

 そういう一連の事に思いが至らず、私は、母の冷たい態度の理由が分からず、ここでもまた途方に暮れました。

 結局、産後実家に行った私は、一カ月の滞在の予定でしたが、10日しか我慢できず、10日目の夜、タクシーを呼んで、新生児を抱いて逃げるように家に帰りました。子供のものもほとんど実家に残したままで、とにかく子供を抱いて実家を脱出しました。これ以上母のそばにいたら、お乳が出なくなる、それぐらいのストレスを感じたからです。

 ここで、言い訳のような事を先に書いておきます。母は、良い人です。でも、私が完璧な人間ではないのと同様、母も完璧な人間ではありません。私は、母を責める気持ちは今、全くありません。ただ、当時は母の事が理解できず、しんどい思いをしました。ここには、当時の私を書きます都合上、母を責めるような内容にならざるを得ませんが、今の私は母を責める気持ちは全く持っていない事を、先にお断りしておきます。

 一番の問題は、産まれた子供が発達障害児である、という事を、その当時の私も母も知らなかった、という事にあります。

 ぐにゃぐにゃで抱けない。体がどうにも不安定で、お風呂に入れるのも一人では支えられない。

 お乳を飲めない。飲めるようになったら、今度は哺乳瓶が飲めなくなる。お乳を飲むのが下手で、一回の授乳に1時間かかる。

 寝つきが悪く、寝起きの機嫌も悪い、起きた瞬間に泣き出して泣き止まない。

 なんだか分からないけれど、とにかく普通じゃない。とにかく何をするのも手間ひまがかかる。ちゃっちゃとこなせない。どうしたらいいのか、育児書にも載っていない。息子のケースは全てが規格外で、対処方法が分からない。何をやっても時間がかかってどうしようもない。要領よく合理的にスッキリとさっさと、と思うのにできない。

 たとえばお風呂。体がぐにゃぐにゃの息子を、私一人で沐浴させるのは不可能で、どうしても母の助けが必要だったのです。寒い時期だったので、昼間の暖かい時間帯、家事があまりたてこまない昼間に沐浴させたかったのですが、母に声をかけても、なんだかんだで面倒くさがられ、結局、夜になってしまいます。夜は、夕食作りから片づけ、家族がお風呂に入る、明日の段取りなど、気忙しく、新生児をゆっくり沐浴させる余裕がありません。勢い、母の態度は「こんなに忙しいのに。沐浴なんか、あなた(私の事)一人でやればいいのに。私は一人でやったわ。どうして手伝わなきゃいけないの」という感じで、いやいややっているというのが丸わかり。

 私だって、面倒くさがる母に、手伝ってもらいたくなかった。でも、ぐにゃぐにゃした体の息子を、片手で支えるのは不可能で、片手で支えられなければ、息子を洗ってやる事は不可能で、誰かの助けてがどうしてもどうしても必要だったのです。

 母の言う事はわかる。私だって、普通の赤ちゃんなら、一人で沐浴させている。今ならそう思えるのですが、その当時、私は、息子が「普通の赤ちゃんではない」という事を知りませんでした。だから、どうしていいか、どこに正義があるのか、分からなかった。

 私は基本的に、とても要領のいい人間で、小さい頃から母に迷惑をかけずに生きてきました。勉強も友人関係も受験も就職も結婚も、全部自力で上手にやり、何一つ母に嫌な思い面倒くさい思いはさせずに生きてきました。面倒さえかけなければ、母は、良い人でした。

 私が母に面倒くさい思いをさせたのは、息子を産んだこの時が初めてだったのです。だから、母という人の、冷たい面を初めて見たのです。母は、子供に面倒くさい思いをさせられる事が苦手な人なのだ、という事を、その時私は初めて知りました。

 だから逆にまた、私が息子の世話にかかりっきりなのが、母には理解できなかったのだと思います。母は、私が実家に来たら、あれこれ家事を私に手伝わせようと思っていたようです。食事の準備とか片づけとか、母一人では大変なお布団の片づけとか、家具の移動とか。でも実際に帰ってきた娘は、それどころではなく、24時間新生児にかかりっきりで、まったく自分の役に立たない。それが、母にはどうしようもなく腹立たしかったのだと思います。

 実家に帰って3日目ぐらいだったでしょうか。息子になんとか授乳を終え、ゲップをさせてからおむつを替え、なんとか寝かしつけた後、ニップシールドを外して洗い消毒していた時、一連の私の行動を眺めていた母に、一言「ご丁寧だこと」と嫌みを言われました。そもそも母は、私がニップシールドを付けている事自体、許せなかったようです。私だって、つけたくてつけているわけではなく、どうしても直に飲ませられないから仕方ない苦肉の策で、それも誰かが教えてくれたわけではなく、看護婦さんだって、育児本だって何も教えてくれなくて、私が、術後の動かない体で必死で売店で探してきて、なんとか授乳できるようになったわけで、責められる筋合いはないし、むしろ少しはねぎらって欲しいぐらいなのに、「ご丁寧だこと」と嫌みを言われて、死ぬほど嫌でした。それでも、母に何か言い返したら喧嘩になる、と思ったので、涙を喉の奥に流して堪えていたら、私が黙っているのが母には気に入らなかったようで、更にこんな事を言ってきました。

「一人子供を産んだからって、いい気にならないで。子供は二人産んで初めて一人前なんだからね」と。

 いい気って。。なってないし。必死だし。ただただ必死だし。しかも息子は、長年の不妊治療の末にやっとできた子供だったので、私がもう二度と妊娠はできないかもしれない事も、母は知っていました。息子の前に、私は一度、悲惨な流産も経験しています。母はそれも知っていました。息子だって、10か月悪阻が続き、毎日病院に栄養点滴を受けに通った事や、流産・早産の危険があり何度も入院して、やっとのことで出産にこぎつけた事を、母は知っていました。母は、私が、精一杯頑張ってやっと一人産めたのだ、という事を、知っていました。それなのに、「二人育てて一人前」という言葉を私に言ったのです。その言葉に、私はとても傷つきました。今なら聞き流せますが、産後すぐの若かった私には、その言葉は堪えました。

 母を擁護するなら、この時、母が知らなかった事があります。私も知りませんでした。息子が発達障害児であり、発達障害児を1人育てるのは、健常児を同時に3人育てるよりもまだ大変だ、という事です。その時私は、三つ子を育てるよりもまだ大変な子育てを始めたばかりだったのですが、そんな事、私も母も知らない。ただただ「要領の悪い母親だ。母親の育て方が下手過ぎて、子供がかわいそう」に見える思える。

 それはある意味、今も同じで、発達障害児は、一見、見たところ健常児と変わりませんから、子供の問題点はすべて、「母親の育て方が悪いせい」と思われます。子供が発達障害児だと知らなければ、母親自身も、自分の事を「母親失格だ」と思いがちです。当時の私がまさにそうでした。

 母からだけでなく、私は、姉からも否定されてしまっていました。

 息子は、発達障害だけでなく、体のほうもあれこれ問題を抱えていました。例えばその問題の一つに、アレルギー体質があります。新生児の頃からずっと鼻炎で、何もないのに鼻が詰まっている。新生児は鼻呼吸しかできませんから、一息ひといき危うい感じで苦しそうなのです。産院や保健センターに電話して聞いて教えてもらった市販の鼻水を吸うポンプ(赤ちゃん用品の)で吸ってやっていたのですが、うまく吸えません。困って、子供を二人産んだ姉に電話してみました。何か教えて欲しかったのです。が、何度電話しても、留守番電話に切り替わります。鼻水のことで教えて欲しい、メッセージを残しても、折り返しの電話はありません。二日ほど、電話し続けていた後、母から「お姉ちゃんに電話するの、止めなさい。お姉ちゃん、あなたから、何度も電話があって怖い。育児ノイローゼじゃないか、ってお母さんに電話してきたわ」と注意されました。

 何度も電話って、折り返しかけてくれないから、電話するしかないじゃないですか。聞きたい事があるから、電話しているわけです。育児ノイローゼって。

 私は、姉の二人の子供の子育ては、できる限り手伝ってきました。姉がどこかへ行きたいという時は、預かってあげたし、幼稚園や御稽古の送り迎えもしてあげました。別に「してやった」といばりたいのではなく、助けあうのが当然だと思ったからやっていました。だから、私が子育てで困っている時は、当然、姉に助けを求めてもいいものだと思っていたのです。

 それが、電話一本かけさせてくれない。かけると迷惑がられ、育児ノイローゼと言われるとは。

 姉はその時母から、私がなんだか面倒くさい子育てをやっている、と聞いていたのだと思います。そして、面倒くさい事に巻き込まれたくなくて、逃げたのだと思います。その後、何かの時に姉に会った時、「鼻水くらいで大騒ぎしてもらって、〇〇ちゃん(息子のこと)は幸せね。普通は鼻水なんか放っておくわよ」と、嫌みを言われました。

 とても居心地の悪い実家でしたが、それでも、帝王切開の手術後がまだちゃんとくっついていなかったし、悪露も出続けていたし、出血が多かったせいで私自身の体調も悪く、仕方なく実家に居続けるしかなかったのです。

 それが、もうどうなってもいいから家に帰ろう、と思ったきっかけは、姉が、自分の風邪ひきの娘(5歳)を、実家に送ってきた事でした。姉は娘の情操教育の為に、新生児を見せてやりたかったのだそうです。それと、子育ての休憩がしたかったのと合わせて、姉は、母に「今週末、娘をそっちで預かって」と連絡してきました。母は、私がいるので、孫の遊び相手は私にやらせればいいから好都合、という事で「いいよ」と返事した。それで、姪っ子はやってきたのですが、鼻水と咳がひどいのです。「風邪ひいてる?」と聞くと「ひいてる。幼稚園休んだ」と言う。なんでそんな子を、新生児のいる家に送ってくるのか、姉の自分勝手にも、母の冷たさにも、恐怖を感じました。ただでさえ、鼻が詰まっている息子が、風邪をひいたらアウト、と私は怯えたのです。もうこれ以上、この家にいてはいけない、と思ってタクシーを呼んで家に帰りました。 

 私が帰ると知って、母は「私の娘はあなただけじゃないし、私の孫は、あなたの子供だけじゃないんだからね。何でも自分が一番にやってもらえると思ったら、大間違いだからね」と私を責めました。

 母からしてみたら、子育てなんて、家事の合間に片手間でやっつけるものなのだと思います。私も姉も、とても「育てやすい子供」だったので、片手間のやっつけ仕事で、ちゃんと育ったからです。私など、赤ちゃんの頃、泣いた事もぐずった事もなかったそうです。よだれすら垂らさなかったので、よだれかけも必要なかったそうです。お乳もよく飲み、ごはんも好き嫌いなくよく食べ、いつも機嫌よくにこにこしていて、放っておいても勝手に一人で機嫌よく遊び、発達も早く、1歳でトイレを覚え、教えもしないのに一人で絵本を読み、お友達とも仲良くし、学校に行けば行ったで勝手に良い成績を取ってきて、困らせる事など何一つなく、、、。母が、子供など、食べさせて着させておけば、後は一人で勝手に育つ、と思い込んだのは当然です。私がそうやって放っておかれてもちゃんと育ったから。

 そんな母からしたら、赤ん坊にかかりっきりの私は、歯がゆくて、あんなのは間違っているから正してやらねば!という気持ちになったのも分からないではないのです。母からしたら、せっかく娘(私)が来るのだから、あれも手伝わせよう、これも手伝わせよう、と思っていたのに、その娘は孫の世話を理由に何も手伝おうとしない。腹が立って仕方なかったのだと思います。

 母はとにかく、私が息子にかかりっきりになっている事を、止めさせたくて仕方なかった。でも、私は止めない(実際には、止めたくても止められなかったのですが)。

 なので、この強情な娘(私)にお灸をすえる意味で、別の孫(姉の娘)を呼び、「ほら、私の孫はこの子だけじゃないのよ。こうやって大家族でわちゃわちゃやるのが当然なのよ。あなた(私のこと)みたいな神経質な子育ては間違っているのよ」と、やってきた。姉の娘を呼べば、私が一緒に遊んでやらねばならなくなり、私が息子にかかりっきりになる事を、強制的に止めさせられるからです。母には、そんな風に、力づくで自分のやり方を、押し付ける癖があるのです。私はそれが分かったので、母から逃げ出したのです。

 それ以降私は、母や姉と、連絡を取らなくなりました。困った事があっても相談もしないし、頼る事もしませんでした。全て一人で乗り切りました。

 母や姉と、普通にまた付き合えるようになったのは、息子が、曲がりなりにも落ち着いてきて、育てやすくなった小学生になった頃からです。

 母や姉からしたら、私が困っているのは分かっていても、どうやったら助けられるのか分からないし、分からないという事がすでにストレスなので、私が困っているという事実を、見ない選択をしたのだと思います。それは、誰にも責められる事ではないと、今の私は考えます。

 仕方ないのです。誤解を承知で書くなら、発達障害児という存在が周囲に与える損害は、果てしなく大きいという事です。でもそれは、発達障害児自身の罪ではありません。周囲の人間の罪でもありません。ただ、事実として、そうなのです。

 損害、というのは言葉がきつすぎるかもしれませんが、それまでの人間関係が、大きくダメージを受ける事は間違いありません。

 ここは本当に、母親が腹をくくらねばならないところだと私は思います。

 発達障害児を良心を持って育てようと思ったら、今までの自分の人間関係や自分の良いイメージを保ち続けるのは、無理です。発達障害児を育てる時、子供を守ろうとしたら、それはどうしたって外からは「過保護」「自己中」「クレーマー」に見えるからです。それは、発達障害児に適した子育て方法が、一般には「過保護に見える」からです。今でこそ、様々な知識を得た私は、それらが「過保護ではない」と理論武装できますが、子育て真っ最中で寝る間も食事の時間もなかったあの数年間、必要な知識を得る事すら無理で、私はただ本能的に息子を守れる事だけを選択して生きていました。それが、実母や姉、またいずれ書きますが、義父母からも距離を取る事です。

 たとえばあの時、私が母に疎まれるのが嫌さに、ニップシールドを止めたら、母には褒められたでしょうが、息子は母乳を飲む事ができなかったでしょう。母に疎まれるのが嫌さに、一人で無理やり沐浴をさせていたら、早晩事故が起こったでしょう。義父母の「もう歩いたか、喋ったか」攻撃に参って、息子を無理やり歩かせようとしたり、無理に言葉を話させようとしたら、息子はいまだにきちんと歩けず喋れていないでしょう。周囲の人達の「ちゃんと躾けなさい」攻撃に耐えかねて暴力を使ってでも息子を厳しく抑え込んだら、息子の精神は壊れ二次障害を起こして取り返しのつかない事になっていたでしょう。

 発達障害児を育てている時、周囲の人達は、良かれと思って様々な事を押し付けてきます。彼らが子供を見る時、彼らは発達障害児としては見ていません。健常児として見ています。彼らは発達障害について何も知りません。だから彼らのアドバイスは間違っている可能性があります。全てが間違っているわけではないですが、母親の勘で「おかしい」と感じる事(人)からは、勇気をもって距離を置かなければなりません。その判断基準は、誰も教えてくれません。本にも載っていません。自分で考え、決めるしかありません。正解は一生分かりません。けれど結果の責任は負わねばなりません。頼りになる前例は何一つありません。それでも、やるしかないのです。発達障害児の親になる、という事は、そういう事だと思います。

 なんだか愚痴みたいなことばかり書いてすみません。別に被害者意識を持っているわけではないのですが、当時の事を書くと、どうしてもこういう感じになってしまいます。私の50年近い人生の中で、最も苦しかったのがこの時期だからで、当時の気持ちを正確に書こうとするとこうなってしまうのです。ですが、今現在の私はこの時期の事を、完全に忘れています。どんなに辛い事も、乗り越えて過ぎてしまえば、忘れられるという事だと思います。

 長くなりました。次回に続きます。

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