書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

価値観の相違という言葉のおそろしさ

「価値観の相違」、この言葉、今や小学生でも使う。
 私が子供の頃は、この言葉はそこまで、流通していなかったような気がするが、今や世の中にすっかり行き渡り、逆に「価値観」という言葉が本来持っている意味が、薄れてしまったように思う。ただ単に、相手の言葉を拒否したい時に、便利に使うようになった気がするのだ。

 「(現実として)あなたは間違っている」と言われても、「価値観の相違ね」と言って逃げてしまう、という場面がよくみられる。「価値観の相違」と片づければ、相手の意見も正しいし、自分の意見も正しい、という風に、白黒つけずに終える事ができる。相手の意見は、価値観ではなく現実なのに、「価値観の相違」という言葉を使って、表面上は逃げる事ができる(でも現実的には逃げられないのだけれど)。 

例えば。
「元値に消費税8%が上乗せされます」と言われても、「私はそうは思わない。価値観の相違ね」と言って、消費税分を払わない。でも、消費税8%というのは今の日本における現実だから、「私はそうは思わない。価値観の相違ね」で、払わずにすませる事はできない。まあ、例を挙げればこんなこと。

 自分のイヤな現実を現実と認めずに、「各々の価値観の違い」で片づけて逃げる時、イヤ、違う、それは価値観の相違じゃなく現実なんだよ、という正論は通じない。「あなたにとっては現実なんだろうけど、私にとっての現実ではない」と禅問答が返されるだけだから。
 私が子供の頃は、もっとあからさまに、「現実」が周囲にあった気がする。今は、選択肢が広がったせいか、自由度が広がったせいか、理由はよく分からないけれど、私達がリアルに生きている社会から、現実感が浮遊してしまっている気がする。

 安部夫人なんかは、この最たるケースだと思う。彼女が50歳になってから、自己実現を追い求めてスピやら国粋やらふわふわした価値観で現実を見ずに動き回った結果が、とうとう解散選挙にまでなってしまった。これで政党や党首が変わったら、国の命運も変わるだろう。現実から目をそらすという事の弊害は、おそろしい。

 現実から目をそらしてきた人が、いったいどこまで、現実を見ずに逃げ続けられるのか、一度じっくり考えた事があるのだが、多分、貧困か心身の病で、死に直面するまで、現実を直視する事は、できないんだろうなという結論に至った。

 そういう意味では、「価値観の相違」を便利に使う人にとって、「死」だけが誤魔化しようのない現実なのかもしれない.。いや、「死」すらどこか、非現実的な逃げの手段になっているのかもしれない。



こんな事をつきつめて考えていると、救いようがないように思うけれど、救いはいつも、ある。必ず。現実をきっちり受け止めて、「よし」と覚悟を決める事で、人は救われると、私は思う。

人には、ものすごい量の潜在能力があるんだけども、それは、とことん行き詰った状態で覚悟を決めないと、出て来ないから。病気を治すのは、医者ではなく本人だ、っていう言葉があるけど、あれと同じで、誰かが治してくれる、と自分の病気を他人任せにしていたら、いつまでたっても病気は治らないけれど、自分自身が自分の病を直視して、逃げずに「よし、受けて立ったる!」と心に決めたら、今まで隠れていた力が出てくる、という事は、あると思う。
 もちろん、人は助け合うもんだし、困っていたら誰かが助けてくれるもんだけれど、
そこに胡坐をかいて、「誰かが助けてくれるから」と放置していいかといえば、それは駄目で、駄目な理由はだから、自分でやれるからだ。



って書いてるこの記事が、丸ごと私の価値観であって、読んで下さっている方の価値観とは、全く異なる場合も往々にしてあって、価値観と現実との違いを明確にする事は、とても難しいなといつも思う。話が通じないのは、私なのかもしれないなと、時々思う。かたくなで、融通が効かない部分が、私にはあるので。