書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

何か悪い事があった時

 何か悪い事があった時、本当のほんとの本気で根っこから、自分の欠点を見つけられる人は、その後の人生で浮上していくように思います。私の勝手な意見ですが。

 でも、自分の落ち度を見つけた、と言いながら、自分の中心にメスを入れるのを避け、表面的な落ち度探しに留まる限り、同じ事が繰り返し起こる、そんな風に思います。違うかもしれないけれど、私の50年近い人生を通して、そんな風に感じています。

 たとえば、職場で先輩に避けられた、苛められた、という時、「私は何も悪くない。先輩が悪い」と考える場合と、「私の危機管理意識が低かった。無防備にプライベートを話してしまい、先輩のマウンティング心を刺激してしまった。先輩は私に嫉妬して、私を苛めている。私は聞かれたから素直に答えただけだけれど、相手が負けず嫌いな人であれば、嘘をついてでも、自分を低く見せなければならない。私は無邪気過ぎた」と考える場合、そして、もっと本当のほんとの根っこの欠点を見つける場合とでは、その後の人生が、全く変わってくると思うのです。自分の心にメスを入れて、本当の欠点を見つければ、もう二度とそれ関連の悪い事は起こらない、と思います。

 例えば、上に上げた例の場合の本当の欠点とは、本人が「聞かれたから答えた」と思い込んでいるけれども、実は、答える時に1ミリでも自慢する気持ちが入っていた、というところにあるのかもしれません(違うかもしれません。他にあるかもしれません。例えばの例を挙げています)。先輩は、その人の「自慢する気持ち」を感じて、その人にイラッとし、その人のその「自慢面」を叩き潰したくなったのかもしれません。

 この場合、叩き潰したくなった先輩のほうが、私よりも悪い、というような比較は、運勢には関係ないように思います。先輩は先輩で、悪い事が起こるでしょうし、私は私で、悪い事が起こる。運勢はそれぞれ個人個人で独立しているので、比較してより悪いほうにだけ、悪い事がおこる、というようなことはなく、1ミリでも悪ければ、その1ミリ悪かった分の悪い事が、私自身に起こる。

 少し脱線しますが、書いておきたいので書きます。たいていの場合、「私は受け身だったから、私に罪はない」という認識は、間違っている事が多いと、私は思っています。

 聞かれたから答えた、それが自慢になったとしても、私に罪はない。

 告白されたから付き合った。それが不倫になったとしても、私に罪はない。

 誘われたから参加した。それが犯罪の片棒担ぎになったとしても、私に罪はない。

 等々。

 受け身であったとしても、それを「受ける」と決めた時点で、本人の意思が発動します。聞かれたとしてもその答えが自慢になる可能性があるなら、まともには答えない、という選択をする事は可能です。告白されても相手が既婚者であれば、付き合わないという選択をする事は可能です。誘われてもそれが犯罪になるなら、参加しない選択をすべきでしょうし。

 受け身であろうと何であろうと、それを「受ける」と決めた理由は何だったのか、そこをじっくり探っていけば、自分自身の本当のほんとの根っこの欠点が見えると思います。

 人に対して優越を感じる事が、本当は好きなのだ、というような事が、見えてくるかもしれません。

 であれば、あとはその、「人に対して優越を感じる事を喜びとする」のを止めるように努力する。

 何か悪い事があった時は、直後はその「悪い事」のせいで気持ちが落ち込んで、自己分析などとてもできる状態ではないですが、少し時間がたって、気持ちが落ち着いてから、自分の中をしっかり見つめ、自分の心にメスを入れる作業を必ずやる事が、大事だと私は思っています。それを逃げずにやる事だけが、自分の人生から不運を避ける秘訣だと思うからです。考えようによっては、不運は自力で避ける事ができるわけですから、ある意味では気持ちがラクだ、と私は個人的には思っています。

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  不運の全てが必ず本人の咎である、というわけではなく、不運には「たまたま起こった物理現象だった」というケースもあり、それは自力では防げないので、神仏に祈願して、守ってもらうしかない、と私は思っていますが、今回はそれは書きませんでした。

  いずれにしても、私の個人的な考え方なので、世の中の絶対的な正解かどうかは分かりません。まあでも、何かこう、自分なりの指針を持っていると、生きていく事はわりとラクになる気がしています。