書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

二番煎じはお金にならない(少し追記)

 今、専業主婦をしている私が、仕事に関して書くのは僭越だと思うのですが、そこは無料ブログということで大目に見て頂いて、、。

 私は、簡単にどこからでも得られる知識を、さも自分のオリジナルの考えのように扱って、それを他人に語る事でお金を貰える、という考え方に、疑問を感じます。同じように、どこかで見た絵(音楽、文章etc..)をマネして描いて(作って、書いて、、)、自分のオリジナルのように扱って売る事が可能、だという考え方にも、疑問を感じます。

 金銭というのは、基本、労働の対価だと思うので、他人がやりたがらない(やることができない)事を代わりにやる事で、金銭を得るというのが一般的だと思っています。ただ、それ以外にも、才能のある人は、オリジナルの「何か」を金銭の対価にする事が可能です。でもそれは、あくまでも、オリジナルの何か、であって、他人の二番煎じでは通用しないと私は思うのです。

 知人で、数年前に会社員を辞め、カウンセラーというかセミナー講師というか、そういうものを始めた人がいます。特に資格を取ったわけではなく、自分自身があちこちの(半素人の)カウンセラーやセミナーに行って聞きかじった知識をもとに、始めたのですが、当然のように客は集まらず開店休業状態で、結局やめてしまい、今はアルバイトをしています。その知人のお子さんが、絵を描く事を仕事にしたいと言い、手始めにポストカードを描いて、コミュケだかネットだかで売り出したところ全く売れなかったそうで、その絵を見せてもらったのですが(というか、そのポストカードを買ってくれないかと言われたのですが)、どこかで見た事のある絵で、全くオリジナル性がなく、これは売れないだろうな、と思いました。

 知人は、「私は人を幸せにできる考え方を知っているのに、私の所に来ない客がおかしい」と言い、「子供の絵はとても上手いのに、子供の絵を買わない客はおかしい」と言い、なぜかとても怒っているのです。怒りの裏に傷も見え、何故売れないのかの理由が、本当に分かっていないようなのです。 

 何かの才能をお金に換える場合、そこには絶対的にオリジナリティーが必須で、二番煎じはお金にはならない、と私は思います。

 半素人のやるカウンセリングの基本は、誰も聞きたがらない客の愚痴を、根気よく否定せずに聞いてやるという行為です。要は「ぐだぐだした際限のない愚痴のループを聞く」という労働の対価が、金銭になります。でも、知人は、そういうカウンセリングはやっていなかった。彼女は、予め、メール等で客の問題点を聞き取って、実際のカウンセリングの場では、一方的に解決方法をアドバイスする、という形を取っていました。何故客に、予め問題点を書き出し提出するように要求していたかというと、それをカウンセリングの場で、だらだらと聞かされるのが、嫌だったからです。「いくら愚痴を言っても仕方ない。私は本質をズバッと指摘する」と言っていました。正論ですが、それをやっても客が来るのは、医師だけです。医師はオリジナリ性は持っていませんが、客は、医師の持っている膨大な専門性と、結果に責任を取ってくれる保障に対して、お金を払います。

 やりたい事をやればお金が入って来る、というような言葉(?)が主婦の間で大流行ですが、やりたい事をやってもいいけれども、それを仕事にできるかどうかは別だろうと私は思います。やりたい事(才能)で食べていくには、完全なるオリジナリ性が必須で、二番煎じしかできない人は、労働で食べていくしかないと私は思います。私の夫も、別段特別な才能はないので、労働で家族を養ってくれていますし、息子にも特別な才能はないので、彼のできる種類の労働を探して、職にするしかないと思っています。私自身も何の才能もないので家事育児で生きていて、家事育児は完全なる「労働」です。他人にやってもらうとすれば、それなりの対価を払わねばならないです。

 私達家族は、労働を金銭の対価にして生きる道を歩いていますが、これは別に不幸でも苦しいことでもなく、やる、と決めてやれば、結構面白いことではないかと、私は思います。

 私は、「やりたい事をやる」事を、否定しているわけではありません。やりたい事は、お楽しみとしてやれば、人生楽しいです。私は今、神社仏閣巡りや、神仏について知る事がやりたい事で、やっていて楽しいです。時々楽しいからブログにも書きます。でも、たとえばその経験や文章を「売ろう」とは思わない。売れるはずがないからです。

 私の「やるべき事(労働)」は家事育児です。これを一生懸命やる。だからこそ、「やりたい事」が楽しいのです。労働する事で思うこと、考えること、湧いてくる気持ち、失敗、悩み、苦しみ、喜び、それらが混然一体となって、私の「やりたい事」を作り上げているのです。「やるべき事」がなくなれば、私にとって「やりたい事」もなくなる。労働があるのは面白い、というのは、そういう意味です。「労働」が、「やりたい事」を生み出しているのです。

 才能がある人というのは、おそらく、自己の中で、ただ生きているという事だけで、それが一種の「労働」なのだろうと思います。どこかにとても過敏性を持っていて、故に、生きるという事が多大な「労働」になっているのだろうと。だからこそ、特別な労働を別途しなくとも、生きているという「労働」から「オリジナリティーのある何か」を生み出し続ける事ができるのではないかと思います。

 「楽しい事だけが仕事。楽しくない事は仕事じゃない」と言っている方がいて、それはまあ、その通りだろうなあと思います。だから私は、この記事で「労働」と書いているわけで。つまり、こういうこと。

 やるべき事(労働)をすることから、やりたい事(人によっては趣味、人によっては仕事)が生まれるのだと。

 つまり、労働→趣味(仕事)、ということ。

 時に、「やりたい事をやるために、やりたくない事もやる」という考え方をする方がいるけれども、これはしんどいだろうなあと思います。しんどい、というか、不自然というか。だから、「やりたい事が分からない」と言う人が出てくるのだろうなあと思うのです。そりゃあ、何の労働もせずにいたら、生じるものもないでしょう。当たり前、と思う。

 あくまでも、労働がまずあって、そこから自然に生じてくるものが「やりたい事」であると、人生は面白いと感じられる。そんな風に思っています。