書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

柔軟性の高さというのは、諦めの良さの事だと思う。

 柔軟性が高いと、生きていきやすい、とよく言われます。

 この「柔軟性が高い」って、具体的にどういう事を指すのかと、今日はつらつら考えていて、多分、「諦めがいい」事じゃないか、という結論に達しました(自分なりに)。

 たとえば。

 別に母の悪口を書くわけではないのですが、母は柔軟性が低い人だと、私から見て思うのですが、その一例が電話です。母は、自分が話したいタイミングで相手と話したい、という希望が叶わないと、とてもしんどく感じるようなんです。つまり、母が私と今話したいと思い、電話してくるわけですが、私が出なかったら、とてもイライラする。なので、私はできるだけ、母からの電話には出るように気を付けているのですが、出れない事もある。翌日折り返し電話すると、「昨日いなかったわね。せっかく電話したのに、何やってたの」的な文句を言われる。ちょっとこっちもしんどくなる。

 もし母が、電話で話す事が不可能である状況にストレスを感じないなら、生きるのはラクだろうと思います。また、私も、母と話してあげられない事で、「ああ、母はストレスで一杯だろうな」と思う事で逆に敷居が高くなり、おいそれと電話に出られなくなるという悪循環。

 年をとってきて、最近の母は、以前よりずっと遠慮がちになり、電話してくる前にメールしてくるようになりました。「あなたの都合のいい時間に電話ちょうだい」みたいなメールがくるんです。で、私がなかなか都合のいい時間がなくて電話できないでいると(母との電話は2時間超えの長電話になるので、時間をしっかり取れる時でないと、と思っているとなかなか電話できない)、二日後ぐらいに、やっぱり怒って電話してくるんですね。「メールしたのに電話がない」と。

 自分から電話しようが、私に電話させようが、とにかく母は、自分が話したいタイミングで相手と話せる事を諦められないんですね。電話だけでなく、母は自分の考えが現実的に通らない時、「仕方ない」とすんなり諦められない人なのです。諦めて別の考えを受け入れる、という事が難しく、それでも現実的に諦めざるを得ない時は、とても強いストレスを感じるようです。

 母のようなタイプは、柔軟性が低いわけで、本人もしんどいし、周囲もしんどいし。ただ、母には良い面も沢山あるので、この文章が母の悪口になってしまわないか少々心配です。一つの例として、他人様のことをあげるよりは、身内を挙げたほうがいいかなと思って書きました。

 自分が思っていることと違うことを言われても、あまり抵抗なく「ああそうか」と受けいられたり、自分の希望と違う結果になっても、「まあいいか」とあっさり忘れることができる人は、柔軟性が高いと思うし、生きていくのがラクだと思います。

 これ、「信念がない」とか、「自分がない」という事とは別だと思うんです。頑固な人のその「頑固さ」というのは、突き詰めて見れば「我」なんですね。つまりはエゴ。我が強い=頑固=諦めが悪い=柔軟性が低い=生きづらい、という公式が存在するのではないかと思います。逆に言えば、生きやすい=柔軟性が高い、という事になるわけです。

 ちなみに、「信念」とか「自分」とかいうものは、「我」(エゴ)ではなく、「矜持」に近いものだと思います。ここを混同すると、人生がやっかいな方向に進んでしまう気がします。

 また、私が最近良く書いている「波動」ですが、これは突き詰めれば「良心」の事だと書きました。これも、わりと一般的には、「個性」のことだと誤解されている気がします。「同じ波動の人と生きることが、無理のない幸せな生き方」みたいな表現をよく見ますので。

 でも、「波動」は「個性」ではなく、「良心」であり「霊格」です。だから、低い高いがあります。自分が低い波動であれば、同じ波動の人達はみんな低い波動の人達になります。低い波動の人達と共に生きる事が幸せ、だとは思えません。自分の波動を固定的なものだと捉えると、いろいろおかしくなっていくと思うのです。「ありのままの自分が一番」みたいな世界観に入ってしまい、それで幸せが叶うはずだと思い込んでしまい、いつまでも迷宮をさまようことになります。

 話がアチコチしましたが、結論として、ラクに生きるという事は、柔軟性の高い生き方の事で、それは「我」を通す事を平易に諦められる事。また、「波動」=「個性」ではなく、波動は常に高めていくものなので、「ありのままの自分でいい」「同じ波動の人と一緒に生きるのがいい」というのは、ラクで幸せな生き方ではなくむしろ、理想が叶わぬ現実に歯噛み続けねばならない生き方になると思います。

 「個性」や「我」は誰にでもあるものですが、個性と良心がバッティングした場合は良心を優先し、「自分の我」と「他人の我」がバッティングした場合は「他人の我」を優先し、そこにしんどさを持たないことを、柔軟性が高い、というのではないかと、私は思います。柔軟性高く生きていくことができるといいなあと思います。

 まあ、そんな事を、今日は考えました。