書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

暴力を躾として使うことについて

 プロのジャズのトランペット奏者の方が、ステージ上で男子学生を殴ったという話をニュースで見た。有料の演奏会で、プロの彼と、素人の学生達が一緒に演奏していたところ、その男子学生だけが、自分のソロパートを勝手に延長し、ソロ演奏を止めなかったので、やめさせるために殴ったそうだ(テレビでもその映像が流れた)。

 そのトランペット奏者の方は、その男子学生への指導が、今までの練習中もずっとうまくいかず、たびたび指導として殴っていたそうだ。

 教育方法として、躾として、「暴力」はアリなのか、ナシなのか。

 端的に言えば、教育(躾)の手段として「暴力」ほど、ラクな方法はない。言葉で説得するのは時間がかかるし、こちらの神経をぎりぎりまで酷使するし、にも関わらず成功率は低い。また、こちらが手本となって行動し、相手に自然に自力で学び取ってくれるというような方法は、とてつもなく大変だ。一方、「暴力」さえ使えば、相手は一瞬で服従する。一瞬で教育(躾)が完璧に完了する。一瞬で、こちらの思い通りに相手を服従させ動かすことができる。相手が子供だろうが大人だろうが関係なく。

 私は、暴力を教育(躾)の手段として使う人を見ると、こう感じる。

 「この人は、指導者(親)として、完全に力不足だ」と。

 誰だって、暴力さえ使えば、相手を自分の思い通りにできるのだ。暴力は、指導方法として、一番安易な方法だ。指導するというのは、そこを封じて行わねばならない(その理由は後述する)。暴力を使うことでしか、相手を指導(躾)できない人間は、指導者(親)になってはいけないと、私は個人的には思う。「暴力」をアリと考える人は、人の上に立つ立場にはならないでほしい。

 なぜ、暴力がダメなのか。

 自分の意見と、相手の意見が異なる時というのは、日常生活に多々発生する。各々が、自分が正しいと思っていて、相手が間違っていると思っている。各々が、相手が自分の意見を聞くべきだと思っている。お互いそう思っているから、決着は簡単にはつかない。何度も何度も話し合い、話し合うことを諦め距離を置き、疎遠になる場合もあるし、距離をおけないときは定期的に話し合いを続ける。1年かも2年かも何十年かも、一生かもしれない。決着はつかない。お互い引かない。だから話し合いを続ける。それが人間関係というものだ、と私は思う。

 一方で、ここに「暴力も可」という考え方が入ったらどうだろうか。話し合いが煮詰まったら、力の強いほうが「暴力」という手段で、自分の主張を相手にのませて終わることになる。力の弱いものが常に負ける、という社会になる。

 この「暴力」というのは、「経済力」や「権力」にも置き換えられるし、「武力」にも置き換えられる。

 今、世界の壮年世代以上の人間は「力の強いものが最終的には必ず勝つ」という常識を持っている。なぜなら、壮年世代以降の人間は、大なり小なり、暴力を使って教育されてきたからだ。親も教師も、刃向うと殴ってきた。力でねじ伏せられるという経験を散々してきた。だから私たちは、「力を持つものが、しょせんは勝つ」ということを、暗黙の常識として持っている。

 だから、戦争もなくならない。なんのかんの言って、核武装もなくならない。みんな「平和がいい」と言いながら、どうしても平和にならないのは、一方で、「とはいえ、力を持つものが勝つのだ」という考えを、私たちが身に染みて覚えこんでしまっているからだ。

 教育(躾)の手段として「暴力」をアリだとするから、世界から核はなくならないのだと私は思う。

 相手(子供)がこちらの言うことを、どうしても理解してくれない時、暴力で解決しようとすることは、意見の異なる国を服従させるために核を使う事と、正義の定義において、まったく同じだ。それは、「正義というのは、力でねじ伏せたものが持つ」という事に他ならない。

 教育において暴力をアリにするのは、暴力を解決の手段にして良いと、子供に教えている事に他ならない。子供がそれで反省するとか、理解が進むとか、そんなことは関係ない。「正義が何かを理解させるのに暴力を使う事は、アリだ」とする、その在り方が問題なのだ。

 「ワイドなショー」で、松本さんが、北朝鮮核武装やミサイル発射について憤る一方で、教育に暴力はアリだと発言されていた。矛盾している気がしてならない。

 北朝鮮がなぜ核にこだわるのかと言えば、今の世界の武力で、核が最強だからだ。核さえ持てば最強国になれ、他国を力でねじ伏せる事が可能だ、と、彼等は考えているからだ。私達には私達の正義があり、私達から見たらどれほどおかしい事であろうとも北朝鮮には北朝鮮なりの正義がある。彼等は自分達側に正義があると考えている。彼等は核を持つ「力のある大人」として、核を持たない或いは使えない「非力な子供」である私達に、ビンタして自分達の言う事を聞かせようとしているにすぎない。

 トランペット奏者の彼が、男子学生をビンタして、自分の言う事を聞かせたように。どちらが正しい間違っているという以前に、力で言う事を聞かせる事がアリだとするなら、北朝鮮の在り方もアリにせざるをえない。

 相手(子供)にこちらの言う事を理解してもらうには、自分の側に、絶対的客観的な「正義」があることを、相手に理解してもらえるように、こちらが汗をかいて行動し、頭を振り絞って考え抜くしかない。イライラをうんざりするほど繰り返し繰り返し飲み込んで、根気よく丁寧に粘り強くやっていくしかない。それでも相手が理解してくれないことのほうが多いだろう。それでも、それしかない。理解してもらえず、道途中で自分の命が絶えることになるかもしれない。それでもいいのだ。私はそう思う。