書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

必要ですか?「本当の自分」像。

 「お金はもういらない」と語っておられる方がいた。

 その方いわく、今現在充分安心感も満足感も自由も幸せも持っているので、これ以上お金はいらない、のだそう。お金がなくても、それらは全部手に入るものだと分かった、のだそう。 

  その方は専業主婦さんなのだが、お金は欲しがらなくてもいくらでもはいってくるもので、安心感や満足感や自由や幸せは、お金の有無とは関係なく手に入るもの、なのだと分かったのだそうだ。

 その方は今まで、次から次へと色んなお仕事(起業含む)をされていた。私が知っているだけでも、施設での介護職、カウンセラー、セミナー講師、霊媒師、訪問での介護職。そして今は専業主婦さん。

 お金の有無といっても程度問題で、暮らしていける程度のお金があれば、安心感や満足感を得ながら生活していくことは可能だと思う。でも、暮らせないぐらい経済的にひっ迫していたら、生活に安心感や満足感を得ることは難しいだろうにな、と私は思う。水道ガス電気全部止められた、とか、家賃が払えなくて賃貸を追い出された、とか。そういう状態で、安心して暮らせる人はおかしいと思う。いくら、幸せの基準が人それぞれの主観だとはいえ。

 だから、お金と安心感は関係ない、と言い切るのは、言い過ぎだと私は思うし、それと、最近、スピ系の方がよく仰る「お金に執着しなければ、逆にいくらでも入って来る」的な台詞も、本当に入って来ている人が言わない限り、マガイモノに聞こえてしまう。いくらでも、って事はないでしょう、、と。

 本当に、いくらでも入ってきてから言ってくれたら、納得できるのだが。ああ本当ですね、凄いですね、って思えるんだけど。

 その方は、つい最近までご自身の事を、「私って有能なので、何でも出来てしまう」と仰っておられた。同時に、お母さんの悪口を盛んに仰ってもおられた。それが、最近変わって、「私は家族からベタベタに甘やかされて育った。何もできない箱入り娘のお嬢様」と言い出した。「今までそれを認めるのが嫌で、有能ぶったり、親から厳しくされた被害者ぶったりしたけど、全部嘘」って。

 そうなんだ。今まで言ってた事が全部嘘なら、今言ってる事も、全部嘘なんじゃないか。明日になれば、すました顔で「昨日言ってた事は全部嘘。本当の私は、、、」と言い出しそう。私はそんな風に感じた。

 彼女のように、次から次へと「本当の私」を繰り出してくる人は時々いるが、どうしてそんなに「本当の自分」を、探し続けなくてはいけないのか、私には分からない。

 必要ですか?「本当の自分」像。私は考えた事もない。本当も何も、今ここにいるこれが私だから、わざわざそれを人に宣言する必要性は感じない。私が発する一言一言、私が行う行動の一つ一つ、それが「私」を表しているのだから、あえて言葉で説明する必要など、ないと思う。

 彼女が本当に、「お金なんかいらない」と思っているのなら、彼女の言動から、それが自然に伝わってくると思うので、いちいち宣言してもらわなくてもいいし、本当に「ベタベタに甘やかされたお嬢様」なら、それも彼女をとりまく空気感で分かるから、言わなくてもいい分かる。

 わざわざ言わなくては分かってもらえない、と思っているのなら、それは「本当の自分」ではないのだと思う。それは多分、「理想の自分」像なのだと思う。理想だから、常に変化し続けているのだと思う。

 これは完全に独断だが、「本当の自分」探しを延々やっている人の持つ「痛み」は、多分、「劣等感(被害者意識)」と「強い負けん気」、なのだと思う。どちらかひとつならさほど痛くないだろうけれど、これを同時に持つと、相当痛むのは想像に難くない。その痛みを誤魔化す為には、常に「本当の私(実際は理想の私)」をリニューアルし続けるしかないのだろう。

 自己啓発の世界では、こういう人に、「頑張ってはいけない(理想の私を追い求めてはいけない)」と指導するわけだが、それでは解決されない。本当に見つめるべきところは、心の中の「劣等感(被害者意識)」と「負けん気」との綱引きの部分で、それを自分で自覚して止めないと痛みはなくならないと思う。表面的な行動の面で、頑張ろうと頑張るまいと、何も変わらない。頑張る方に傾いている時は「負けん気」が自覚されていて、頑張らない方に傾いている時は「劣等感(被害者意識)」に傾いている、それだけの事だ。どちらもなくす、ニュートラルになる、という事が大事なのだと私は思う。