書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

押し付けがましさの裏側

 「慢」の裏側は「痛み」だと書いていて、これを思いついたので、書きます。これ、というのは、「押し付けがましさ」のことです。

 押し付けがましさ、というか、過剰な「私、やってあげてますよ」アピールというか。そういうの、されると苦手な人は多いと思うのに、意外とやる側の人も多いように思います。

 よく利用させてもらっているスーパーのレジ係の方で、「やってあげてますよ」アピールが過剰な方がおられるのです。

 「大きなほうの袋を入れておきますね」「ナマモノ用のビニールを入れておきますね」「冷凍食品用のビニールを入れておきますね」「あたたかいものなので、別にしておきますね」「イチゴ(桃、いちじく、、、、)はつぶれやすいので、別にしておきますね」「卵は上にのせておきますね」以下省略、、、、、

 そのスーパーの他のレジ係の方は、これらを仰らないのです。淡々と、必要な袋やビニールをカゴに入れてくれて、重たいものは下に軽いものは上にきれいにカゴに入れてくれて、最後に一言「有難うございました」と仰るだけなのです。

 それが、この方だけは、上記のように、ご自身がなさる事の全てを実況中継のようにこちらに申告してこられるんです。「これもやっておきますね」「これもやってあげますよ」と。最初の時、「これもやってあげますね」と言われて、私が反射的に「有難うございます」と言ったら、「こちらこそ有難うございます」と返されてしまいました。御礼に御礼で返されてしまったので、それ以上御礼を返すわけにもいかず、黙るしかありませんでした。それ以降は、一方的にその方の「やってあげてますよ」攻撃に耐えるのみ。御礼を言えたら少しラクになれるのですが、御礼を言えば御礼で返されるので、結局同じことなので言えません。ただ言われっぱなし。

 ハッキリ言って、彼女が申告してこられる事は、別に言われなくても見たら分かる事なのです。大きなレジ袋を入れてくれたな、とか、生モノ用のビニールも入れてくれたな、とか、言われなくても見たら分かる。見たら分かるから、他のレジ係りの方はあえて言わないわけで。でも、そのレジ係りの方は、言いたいのでしょう。見たら分かるかもしれないけれど、自分がしてあげた事に、万が一にも気付いてもらえなかったら悲しいから、念の為に全部細かく言っておこう、と思っておられるのでしょう。

 このレジ係の方は苦手だなあと思い、それ以降は避けるようになったのですが、そう感じるのは私だけではなく、他のお客さんも同じ思いらしく、そのレジ係りの方の列は、混んでいる時でもあまり人はいません。

 何故人が、彼女のレジを避けるのかといえば、「私はこれだけやってあげているのだから、私の事を認めなさい」という「押し付けがましさ」に、辟易するからです。

 彼女は、彼女がいかに親切な人間であるかを人に認めて欲しくて、「私はこれだけやってあげている」とアピールするのでしょうけれど、これをやると、逆に嫌がられて避けられるのですよね、実際は。

 人は、自分が他人から認められる事を求める一方で、自分はなかなか他人を認めたがらない。認めると負けるような気がしたり、どこか苦手な部分があって避けたかったり、簡単に認める危険を考えて慎重になったり。容易には他人を認めません。子供のことをなかなか誉められない親も多いですよね。簡単に誉めてしまったら、子供を増長させてしまうんじゃないか、子供が努力しなくなるんじゃないか、子供がうぬぼれるんじゃないか、という気持ちがある場合もあるし、単純に、子供を誉めるのが忌々しくて嫌、という場合もある(私も母親からは誉めてもらった記憶がありません)。

 でも、自分は他人から認められたい。もう手放しで認められたい。ここに私が存在しているだけで、認められたい。

 人間の心のシーソーは、かくも平行ではないのだから、他人から認められる事は、さっさと諦めるに限るなあと、レジに行くたびに思います。人から認められたい、認められたい、という「痛み」が、裏にあるのだろうなあと思うのです。承認欲求の強さは、自分を苦しめるなあと思います。