書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「慢」について②

 心に大量の「慢」がある人と、接触せねばならない時は、どうしたらいいのか?そういう人と接触しても、こちらの「慢」を刺激されない良い方法はあるのか?今回は、これについて書いてみます。

 「慢」は、どこから生まれるのか。まず、それを考えてみました。

 何もないところから、「慢」が生まれるわけではない。おそらく「慢」は、「痛み」から生まれるのではないか、と私は推測します。

 「慢」の心の裏には、というか、「慢」の反対側には、必ずその元となる「痛み」がある。表面側に出ているのが「慢」で、裏側に隠れているのが「痛み」。

 何かとても痛い事があるから、それをカバーするために、「慢」を生じさせている、私はそんな風に思っています。

 だとしたら、他人の「慢」に触れた時、見えている「慢」ではなく、その裏に隠れている(見えない)「痛み」のほうにフォーカスしたらいいのではないか、と思ったのです。これはとても微妙な作業で、下手すると、相手を見下したり、上から目線で憐れんだりする事になってしまうので、十分に注意しないといけない。

 相手の「慢」を見てしまった時、イラッとする前に、その前に、その「慢」の裏側の「痛み」を自動的に見つめ、「痛み」にフォーカスする。そして、ああこの人はこんな「痛み」を持っているのだなあ、と気づく。それだけで良いと思います。それ以上はいけない。「そんな痛みを持っているのね、お気の毒に」とか「あなたは痛みを隠す為にそんな行為をしているのね、おかわいそうに」等と、相手を勘ぐって自分を上に上げてはいけない。そんな事をすれば、自分の「慢」が増えるだけですから。

 相手の「痛み」にフォーカスする目的は、相手を下げて自分を上げるマウンティングの為ではなく、純粋に、相手の「慢」を浴びる事から逃れる目的なだけです。相手の「慢」ではなく、その裏にある「痛み」を見つめる事で、相手の「慢」を避ける事ができる、だから、「痛み」にフォーカスすべきだと私は思うのです。

 例えば、誰かが裕福自慢をしていたら、その「裕福自慢」の裏のその人の「痛み」を見つめる。なぜこの人は、わざわざ裕福自慢をしないではいられないのか、と考えると、その人の持っている大きな痛みに気付く。それは、将来に対する不安なのかもしれない。他人が持っていてその人が持っていない家族愛の欠如かもしれない。本能的な何かの欠如かもしれない。健康面での不安かもしれない。その痛みを見つめた時、もはやその人から延々とぶつけられる裕福自慢話は、消えていきます。ただ目の前には、それをその人に言わせ続けている、その人の「痛み」だけが見える。

 それでいいのです。そこまでで。

 誰かの「慢」をぶつけられたら、その裏にある「痛み」を見つめる。そうすれば、自分の「慢」を刺激される心配はありませんから、自分の「慢」が増える事もありません。いたずらに刺激しなければ、そして使わないように心がけていけば、「慢」の心は順調に減っていくと思います。

 今日はここまでで。また「慢」について思うことがあったら、おいおい書いていきたいと思います。