人間の基本的煩悩である「慢(驕りの心)」が、自分を苦しめ、他人を苦しめるものであるなら、それを別のものに変えなくてはいけない、という事で、「慢」を別のものに変える方法について、考えてみたいと思います。
「驕りの気持ち」というのは、無人島で、自分がこの世に1人っきりという状態では、生じ得ません。自分以外に誰もいないのに、誰に対して驕るというのか。自分に対して驕るというのはあり得ないのですから。つまり、「慢」とは、他人が存在することで生じる気持ちであり、もっと言えば、無意識的にでも他人と自分とを比較することで生じる気持ちという事になります。
人間は社会的な生き物なので、どうしても他人との関わりを持って生きていかねばなりません。そして、他人が存在する時、どんなに気を付けても、他人と自分を比較する気持ちをゼロにする事はできません。
でも、それを減らす事は可能。
まずは、他人と自分を比較する事をゼロにするのではなく、極力減らしていく方向で工夫していく事が、自分の中の「慢」を減らしていく事に繋がるのではないかと気が付きました。
ここで更に気が付いたのは、「慢」は影響し合う、という事。他人の「慢」に触れると、自分の「慢」が刺激され、膨れ上がるという事です。
世の中には、「慢」の気持ちが多い人と少ない人がいる。同じ「自分語り」でも、「慢」の気持ちが多い人のそれは自慢になり、「慢」の気持ちの少ない人のそれは自慢にはなりません。不思議なほど。
であれば、この人の「自分語り」は自慢に聞こえるな、という人の声は、できるだけ聞かないようにする事が、大事だなと思いました。他人の「慢」に触れると、自分の「慢」を増やす事になってしまうからです。
また、同じく、「慢」の気持ちが多い人の「自分語り」は、我慢披露になります。「慢」の気持ちが少ない人の「自分語り」は、ただただ事実の提示に過ぎないのに、不思議です。自分を一方的な被害者にして語る人、そういう話からも、極力距離を置く事が大事なのだと思います。
つまり、まずは他人の「自慢」と「我慢」に触れないようにすること、が、自分の「慢」を減らしていく事、そしてそれを違うものに変えていく最初の作業になるのかなあと思います。
「慢」というのはそもそも仏教用語で、我慢自慢含め、七つの「慢」があるそうです。自慢や我慢以外では、
過慢かまん 自分と同等の人に対して自分が勝っているとし、自分以上の人は自分と同等とする。
慢過慢まんかまん 勝っている人を見て、自分はさらに勝っている、とうぬぼれる。
増上慢ぞうじょうまん 悟っていないのに悟ったと思い、得ていないのに得たと思い、おごり高ぶる。
卑慢ひまん 非常に勝れている人を見て、自分は少ししか劣っていない、と思う。
邪慢じゃまん 間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張る。
などがあるそうです(ネットを見て、分かりやすい説明をお借りしました<(_ _)>)。
いずれにしても「慢」が心にあるから生じる心の状態。
例えば、邪慢にしても、慢が心に無い人が、たまたま自分の行為が正しいと思い違いしていた場合は、邪慢にはならないわけです。ただの思い違い。ただの勘違い。だから誰かから「あなた、それは間違っているわよ」と指摘されたら、スムーズに受け取って、「ああ、そうか」とか「え?どこが?」とか、まずは我が身を省みることができる。全く抵抗なく。
でも、慢がある人が、自分の行為をジャッジされたら、間違いなく逆切れします。間違いを指摘されたら逆切れするような心の状態が、邪慢、なわけです。
いずれにしても、心に慢を多く持っている人には、できるだけ近づかない接触しない事が大事だと思います。
でも、どうしても接触せねばならない時は、どうしたらいいのか。接触したら、こちらの慢が刺激され、どんどん増えてしまうのに、避ける事ができないとしたら。
それについては、次回に書きたいと思います。私の個人的な考えですが、、。