書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

我慢と自慢は同じ

 「我慢と自慢は同じことだ」という主旨のブログ記事を拝読しまして、面白い考え方だなあと思いました。記事内容は、以下のようなものでした。

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 ベストセラー「嫌われる勇気」は、韓国でもベストセラーになっている。儒教の教えが行き届いている国(日本と韓国)は、人間関係では我慢することが多いのかもしれない。

「慢」とは、「驕り」のことで、人間の根本的な煩悩だ。

 自「慢」は、その「驕り」を自分の外側に表すこと。

我「慢」は、その「驕り」を自分の内側に溜めること。

つまり、この二つは、「慢(驕りの心)」を持っている、という意味で言えば、同じこだ。自慢は他人を嫌な気持ちにさせ、我慢は自分を嫌な気持ちにさせる。気持ちだけではなく、体にも影響し、「慢(驕りの心)」のエネルギーは、人を病気にさせる。

自慢によって他人に押し付けると他人を病ませ、我慢によって自分に溜め込むと自分が病む。「慢(驕りの心)」を別モノに変えるべきだ。

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  先日、私は気楽になると、ついつい気持ちが「傲慢」になってしまう、という悩みを書きました。

 「傲慢」、まさに「慢(驕りの心)」です。上の方によると、人間の基本的な煩悩なのですね。

 気楽になると、煩悩が出てくるのは(私の場合ですが)、どうしてなのか。それをつくづく考えた時、ハッと気づいたのですが、私は、気楽になる以前の状態が、まさに「我慢」だったのです。

 もともと私の心は大量の様々な「慢」を常時生み出していて、私はそれを、自分の中にずっと溜め込み続けていた。我慢し続けていた。

 私の我慢の多くの部分を占めていたのが、「息子の悪癖に耐える」でしたが、息子の変化によって、これを我慢する必要がなくなった。そのせいで、私の中で、「慢」の心を自分の中に押さえ込んでいたストッパーが、外れた。ストッパーが外れたせいで、その他の「慢」が、私の外に出てしまうことになった。

 「慢」の気持ちを自分の中に押さえ込まなくてよくなって(ストッパーが外れて)、私はとても気楽に心地良くなったのですが、同時に、「息子の悪癖に耐える」以外の我慢の要素が、外にダダ漏れになってしまったのだと思います。

 結局のところ、上のブロガーさんも書いておられる通り、自分の「慢(驕りの気持ち)」をなんとか別モノにしないとどうしようもないんだなあ、と感じます。

 一言で、じゃあこうする!とは書けないのですが、なんとなく、こういう感じなのかなという方向は見えるので、また具体的に進んだら、ブログに書いていきたいと思います。