書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

溜め息がでること

 私の姉は、大のスピリチュアル好きです。自己啓発や、神がかりな治療(手をかざすだけで治るとかそういうやつ)、瞑想教室や波動ナンチャラも大好きです。宇宙話や神話や「アナタはアナタのままでいい」的な話も大好きです。それらのホームページやブログを日々探している模様で、彼女曰く「ピンときた」ら、すぐにアポを入れて会いに行く(講演を聞きに行く、施術を受けに行く、等々)のです。

 のめり込んでトラブルになった事が過去に何度かあり、私も放っておけなくなりました。なので姉が「凄い人を見つけた!」と電話してきたら、以前のように適当にあしらわず、しっかり話を聞いて、その矛盾なりをきちんと指摘し、深入りしないようにつどつど注意するようにしています。

 それでも、姉の「凄い人みつけた!」話は、本当に聞いていてしんどいのです。確かにその人は凄い人なのかもしれない、本当に力のある人なのかもしれない、世の中の全てを見通せる特殊な力を持っているのかもしれない、でも、なぜ姉が、そういう特別な能力のある人に、いつもいつも近づいていこうとするのか、が、私には解せないのです。

 先日も電話してきて「凄い人みつけた。世の中の仕組みが本当に分かっている。手をかざすだけの施術で、人の体も治せる人だ」と言うのです。姉に「あなたはどこを治してもらったの」と聞くと、「別に悪いところは無かったから、よく分からないけども、肩こりがなくなったし、頭がスッキリした気がする。でも私と一緒に行った人は、行きはびっこを引いていたのに、帰りは引いてなかった。最初は足の長さも左右差が凄くあったのに、ただ手をかざす施術を受けただけで、終わったら足の長さが同じになってた。引っ張ったりしてないのに。凄いでしょ」という返答。そしてその人が、宇宙のしくみについてあれこれ話すのを聞いてきた、と言う。「2〇〇〇年にはこの世界は終わるんだって。だから今を大事に生きないといけないんだって」、、、、などなど、なんか書いていてしんどいです。

 私が、「何故、その人の所に行くの?体のどこかを治してもらいたわけでもないのに。気晴らし?」と聞くと、「気晴らしじゃないよ。勉強に行ってるの」と言う。

 勉強、、、、。

 私は、そういう事を商売にしている人が悪い人だと言いたいわけではありません。もしかしたら本当に力を持っている人なのかもしれません。ただ私が疑問に思うのは、何故姉は、いつもいつも、そういう人を見つけては会いに行きたがるのだろうか、という事なんです。何故姉は、いつもいつも、そういう人を必要とするのだろうか、という事。通常ではない力を持つ人に、特別に治してもらったり特別な話を聞いたりする事を、どうして姉は必要とするのだろう。

 体に悪い所があるなら、地道に治せばいいじゃないか、と思うのです。その人に治してもらったって、また時間がたてば元に戻ってしまうかもしれないじゃないか、と。そんな頼りないことに頼るのではなく、自分の力でコツコツと自分の体を治していけばいいのに、と私は思うのです。そのほうがずっと確かだと。肩こりが辛いなら、ストレッチをしてゆっくりお風呂に入ってよく寝る事ですよ。姉のようにストレッチどころかお風呂にも入らず朝までリビングのソファーで寝てしまうような生活をしていたら、肩こりになるのが当然ですが、それを、正しい生活に戻すのではなく、治す力のある人に頼って治してもらいたがる理由が、私には解せない。

 ほんとうに力のある人は存在するでしょう。私はそこを疑っているわけではありません。ただ、さして困っているわけでもないのに、そういう人を探して見つけて会いに行く事を日々のルーティンとしている姉に、不安を感じるのです。

 姉は、人生の勉強だ、と言うのですが、私から見たらただの逃避に見えます。

 そういう力のある人、不思議な人というのは、見ていて面白いですよね。努力なしに興味を惹かれる。珍しいもの見たさを満足させてくれる。しかも、自分が地道な努力などしなくても、お手軽に体を治してもらえたり、他の人が知らない先(未来)の話を先取りして教えてもらえたり、お得です。そうやって、毎日毎日外で興味を満足させる事をしたがる理由というのは、本来自分が向き合わなくてはならないモノから目をそらしたいからではないかと、私は疑ってしまいます。自分が見たくない現実から目をそらす為に、自己啓発やスピ系の人達(珍しい存在、複雑な事を単純化して言ってくれる存在)を日々追いかけているのではないかと。

 逃げていても、必ずいつか追いつかれて、自分が苦しむ事になると私は思うので、姉には、逃げずに向き合って欲しいと思うのですが、通じません。「私はこれでいいの」と言うばかりで。

 あと、姉は自己啓発やスピの場で、必ず私の息子の話を話題にするのも、私とてしてはとてもイヤなのです。しかも、そういう所の「先生」は、必ず息子の事を、「その子は特別な子供であり、ある日目覚めて特別な力を発揮する日が来る」的な事を言うらしいのです。姉はそれを、ものすごい秘密のように私に言ってくるのですが、私としては鼻白むばかり。

 息子は、私にとっては当然ながら特別な子供です。最愛の一人息子ですから。ですが、特別な力なんてどうでもいいのです。そんな大袈裟な、人の気を惹くのが目的の言葉に、私が感銘を受けたり興奮したりする事はありません。むしろ実態とかけ離れているが為に、心は冷めていくばかりです。息子にとって必要なのは、そんな浮ついた大袈裟な言葉ではなく、日々の細かい一つ一つです。一つひとつ手を抜かずに世話をしてくれる存在、一緒に寄り添い親身になって考えてくれる存在、息子の為にどこまでも時間をさいてくれる存在です。息子に対し「君は特別な能力があるよ。世界を救うよ」と言ってくる存在が、息子に一体何をしてくれるというのでしょうか。何もしてくれませんよ。ただ、人の気を惹く言葉を言うだけです。言うのはタダです。無責任に言うだけなのです。どうしてそういう言葉に、姉は惹かれて興奮するのか、私には理解できないのです。そして、そういう言葉を聞く事を「勉強」だと捉えている姉が、理解できないのです。

 姉との心の距離が、どんどん開いていく事が嫌なのだ、というだけでなく、姉が私にとっては「不安しかない世界」に洗脳されていくのをただ見守るしかないことに、溜め息が出るのです。姉は人間関係で定期的にトラブルに巻き込まれるので(というかトラブルを起こすので)、つど私に相談してきますから、姉と距離を置く事もできませんし、老後の母のことや、家の問題も、姉と力を合わせてやっていくしかないのです。にも関わらず、私が姉を変えることなど不可能だし、何にせよ、口出しする事は絶対にできません。

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 ちなみに、私が神仏に祈る事と、自己啓発やスピ系に執心する事とは、同じなのではないか、と思われるかもしれませんが、私は違うと思っています。

 神仏に手を合わせても、神仏が私に何かを言ってくれるわけではありません。具体的にその場で何かをしてくれるわけでもありません。神仏に、目に見える実体はありません。神仏に手を合わせた時、聞こえるのは自分の耳の血管を流れる血の音だけです。神仏に手を合わせた時、私が見ているのは、自分自身の心だけです。そこには、私しかいません。他の誰かが、私に向かって、何か優しい言葉をかけてくれるわけでも、励ましてくれるわけでも、血沸き肉躍るような興奮する世界を見せてくれるわけでもありません。神仏に祈ったからといって、何か御利益があるという保証は一つもありません。誰も何も約束してくれません。ただ、自分自身の心が、「信じる」と決めるだけなのです。誰も助けてくれません。自分自身の力一つで、信じ続ける、と決めるだけなのです。神仏に祈る、という事は、「自力」なのです。

 それに対し、自己啓発やスピ系では、必ず「助けてくれる人」の存在があります。そこに「人」がいるのです。耳に優しい言葉、励ましの言葉、安心していいよ、そのままでいいよ、あなたは正しいよ、あなたは特別な存在だよ、と言ってくれ、驚くような事を話してくれ、見せてくれ、ワクワクさせてくれる存在が、そこにはあります。全てはうまくいく、と保証してくれ、あなたの機嫌をとってくれ、わくわく興奮させてもくれます。一人では「自分」というものが何者なのか、分からない人に、「あなたはこういう人だ」と教えてくれます。そこに頼れば、自分が何者なのか、自分がいかに素晴らしい人間なのか、教えてもらえる。一人では心に隙間風が吹くけれど、そこに行けば何か充実感を与えてもらえる。自己啓発やスピ系に傾倒するという事は、「他力」なのです。

 つまり、自己啓発やスピ系に長期間にわたって傾倒し続けていると、心の筋力が衰えてしまい、自力では何も考えられない、解決できない、進めない人間になってしまう、と私は思っています。

 自己啓発やスピにも、同時に、神仏にも、双方に心頭せず、まったくそういう心の世界の支えなど必要なしに生きていくこともできると思います。以前の私がそうでした。それはそれで、安定した生き方でしたが、今は私は、神仏を信じる生き方に変えました。その経緯については、過去記事に書いた通りです。