書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

好きな人が嫌いになる、嫌いな人が好きになる、そして。

 私はアラフォーなんですけども、この年まで生きてきますと、嫌いだった人の事を好きになったり、好きだったはずの人を嫌いになったり、という事を、時々経験します。そして、いずれにしても、最終的には、好きでも嫌いでもない、という所に落ち着きます。

 私は、今、ほとんどの人に対して、好きでも嫌いでもないなあ、と思います。私が好きだと感じるのは、息子を含めごく少数です。私が嫌いだと感じる人も、ごくわずかです。

 好きだと感じたり、嫌いだと感じたり、というこの感情は一体何だろう?と思うのですが、他の方のことは分かりませんが、私個人で言えば、

 私自身の考え方と似た考え方をしている人、私自身が由と思っている生き方をされている人、を私は好きだと感じるようです。逆に、私と真逆の考え方をしている人を、嫌いだと感じるようです。

 好きが嫌いになったり、嫌いが好きになったりするのは、私自身の考え方が生きて行く中で変わっていくからだと思います。そして、いずれにしても、最終的には好きでも嫌いでもない、という所に落ち着く理由は、私の考え方の幅が(おこがましい表現ですが)、広がったからだろうと思います。

 好きな人というのは、私のその考え方の芯の部分に近い人の事だと思います。どれだけ幅が広がろうが、芯の部分は存在し、そこが共通の人を、私は好きだと感じる。一方、その、私なりに最大限広げた考え方の幅からも、漏れ落ちてしまうほど極端に異なる人を、嫌いだと感じるのだと思います。

 

 以前は、誰かに否定されたり、批判されると、その人の事が嫌いになりましたが、最近はそういう事はなくなりました。否定や批判のその内容をよく吟味し、私に落ち度があると思う場合は謝るなり反省して改善するなりし、あとは忘れます。繰り返し目の敵のように否定されるのは怖いので、逃げる場合もありますが、いずれにしても、批判された腹いせに、相手の弱点を突くような言い返し(「そうは言うけれど、あなただって」とか「他人を批判する人って、自己肯定感が低いのよね」とか)はしません。批判された事に返答が必要なら、その事に限定して返答はしますが、それで終わります。返答が必要でなければ、返答もしません。たとえ私に非がない事で批判されたとしても、仕返しのように相手を批判はしません。聞かれたくない事を聞かれて真正直に返答した後に、「どうして私にそれが聞きたいの?」といったような、質問返しもしません。どうしてって、意地悪したいからに決まっているわけで、聞くまでもないし、そういう「言葉の応酬で相手の上に立つ事」や、「言わないと気が済まないので言わせてもらう」的な行動は、無駄だなあと思うようになったからです。それに、私にも意地悪心は多分にあり、ただそれを外に出していないだけだから、です。相手にも意地悪心があったところで、相手を責めるのも違うなと思うからです。私にもあるわけだから。

 

 話は少し変わりますが、ある人が、こういう内容のことを仰っていました。

「他人に言いたいことは自分に言いたいこと。他人についてあれこれ言うのは、ただの自己紹介でしかない」

 心理学で言うところの「鏡の法則」なわけですが、私はこの考え方自体を間違いだとは思いませんが、自分自身では使いません。「考え方を使う」というのは変な表現ですが、こういう「鏡の法則」など心理学のある種の(便利な)考え方を採用すると、明らかに自分に非があっても一切反省する必要がなくなるので、危険だなと思うからです。

 好きも嫌いもその人の自由だし、誰かに対して何かを言いたくなるのも、実際にあれこれ言うのも、その人の自由で、そこを否定するのは、人間性の否定につながるなと私は思います。

 人を嫌いになってはいけない、とか、人を批判してはいけない、とか、そんなに窮屈に生きる必要はないと私は思います。嫌いなら嫌いでいいし、批判したければ批判すればいいし、そういう気持ちもいつの間にか変わっていくのだから、わざわざ押し込める必要はないと思うのです。私も変わりましたし。だから安心して嫌いになればいいし、安心して批判すればいいと思うのです。気持ちは自然のままが一番だと思います。

 

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