書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

頑張る動機を見極める

 できるだけ日々、平穏に暮らしたいと願っています。とりもなおさず健康で、経済的にも困らず、大きな不安や不満もなく、穏やかな気持ちで毎日過ごせたらいいなと思うのです。でも、そうはいかない時もある。何がダメなのか、どういう事がダメなのか、時々考えます。

 今、「頑張る」という言葉が、ものすごくネガティブワードになっている気がします。頑張るから鬱になるんだ、とか、頑張るから病気になるんだ、とか。何かネガティブな事が起こると、「それは頑張りすぎたからだ」と決めつける流れが、出来上がっている気がするのですが、でも、この「頑張る」ということ、そんなに悪いことなのでしょうか。

 自分自身のこともそうですし、周囲を見回しても、単純に頑張ったからダメだったのだ、というケースは見当たらないのです。むしろ、もうちょっと頑張ったら良かったのに、、、、と思われるケースのほうが多い。自分自身のケースも含め。

 頑張る事自体が悪いのではなく、問題は、頑張るその「動機の部分」ではないか、と思うようになりました。

 何故、頑張るのか。何を求めているのか。何の為の頑張りなのか。つまり、間違った動機からの「頑張り」は、いつかは必ずネガティブな結末に行きあたるのだと思うのです。

 私が考える「間違った動機」は、3つあります。1つは、他人の価値観に影響されている場合。もう一つは、我欲が動機になっている場合。最後は、他人の機嫌をとる為に頑張る場合です。

 何かを頑張る時は、自分の中に確固とした価値観を持っていないといけない、と私は思っています。逆に言えば、自分の中に確固とした価値観を持たない人が、他者の価値観に操られて頑張る事は、危険だと思うのです。

 他者の価値観に影響された頑張りの動機、というのは、他人と比べて自分が上に行きたいから、とか、他人が出来ている事を自分も出来ていたいから、みんな持っているから私も持ちたい、とか、そういうものです。それが、本当に自分が望むものではなく、他者と並びたい、他者より優越したい、というものになっていると、その頑張りは危険だと思うのです。

 何故それが危険かというと、終わりがないからです。比べるべき他者は星の数ほどいるからです。だからある一定の場所に到達したところで、満足を得られません。他者を基準にしていると、その「他者」はどんどん入れ替わり、いつまでたっても充足できないのです。

 二つ目の間違った動機「我欲が動機になっている場合」について、ですが、我欲が自己の価値観の根幹にある事が、そもそも危険だと私は思っています。我欲には限りがないからです。我欲には、満足という瞬間がありません。嬉しいのは欲しかったものが手に入った瞬間、その一瞬だけで、次の瞬間にはもう、次のものを欲しがるようになるのが我欲です。なので、我欲を満たす事を追及するのが動機となる「頑張り」は、終わりがないのです。他人の価値観に影響されている場合もそうですが、我欲が動機になっている場合も、その頑張りに終わりがないので、頑張りすぎる。だから良くないと思うのです。

 三つ目の間違った動機「他人の機嫌をとる為に頑張る場合」とは、人にやらされている頑張り、人を怒らせたくなくて自分が犠牲になっている頑張り、の事です。つまりは、イヤイヤやっている頑張りで、こういうのが一番ストレスがたまります。早晩、心が悲鳴をあげて、それ以上頑張れなくなります。親の支配下にある子供ならまだしも、大人であれば、何を頑張るか頑張らないかは自分で決めていいし、決めるべきだと思います。誰かの都合に合わせる為に頑張ると、確実に被害者意識が募ります。この被害者意識が心身を蝕むし、人格すらも壊してしまいます。頑張れば頑張るほど、感じの悪い人間になってしまう。

 誰かの機嫌をとる為の頑張りは、一旦全部やめてしまえばいいと私は思います。一旦全部やめてリセットして、そこから再び何をやるべきか、自分で考えて、慎重に決めていけばいいと思います。リセット後に自分で決めた事は、自分の意思です。自分の選択です。自分にとって必要な頑張りです。他人の機嫌をとる為に頑張るのではなく、自分の為に頑張るのだと、ハッキリと自覚できることだけを選べばいいと思います。被害者意識にこりかたまった頑張りは一旦リセットして、自分の為の頑張りに、再構築する必要があると思います。

 以上が、私の考える「間違った動機からの頑張り」です。

 

 それが正しい動機からであれば、つまり自発的な、自然な自分発信の動機なら、頑張っても鬱にはならないし、病気にもならない。逆に、そういう頑張りが、人生からネガティブな要素を駆逐してくれるのではないかと、最近私は感じるようになりました。何事もなく穏やかに生きる為には、あらゆる事に受動的に生きるのではなく、逆に、一つ一つ澄んだ気持ちで見極めて頑張ること、それが必要なのではないかと思うのです。つまり、頑張ることって必要じゃないのかな、と思うのです。

 

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今日は、雨があがって、真夏のような日差しです。