書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

ニコニコした母親になる為には、無責任母親にならねばならないのか。

 わりと親しい知人に、「無責任礼讃ブーム」に乗っかっている人がいる。「私が幸せなら、家族も幸せになる。だから、私は私自身を幸せにする事だけ一生懸命やればいい」と本気で思っておられる。お子さんは生きずらさに苦しんでいるが、彼女はあまり気にしていない。中学から私立に通っていた時そのお子さんから「テストが返って来たら、点だけ見てその場で学校で捨てて来る」と聞いて、驚いた事がある。家に持って帰らないの?聞いたら、「何のために?」と逆に聞かれた。家に持って帰っても、母親が見てくれるわけでもない、誉めてくれるわけでもないのに、と。

 お子さんは中学で苛められ、高校で不登校になり、大学受験に失敗して、今精神科に通っている。悲しい。知人は、自分がご機嫌で楽しく暮らしていたら、子供も幸せになると、かたくなに信じている。お子さんの現実を直視するとニコニコした母親ではいられないから、見ないように気にしないようにしているそうだ。知人は良い人だ。ただ、ラクな方に流れやすいだけなのだ。自分をラクにしてくれる言葉に、簡単に乗っかってしまうのだ。

 無責任礼讃ブームを作っている人達の無責任さ。それで本が売れてメルマガが売れて講演が出来てその人達は儲かるのだろうから、その人達の人生において「無責任は素晴らしい」という事になる。でも、全ての人にそれが通用するわけではない、という事は隠されている。

 ならば。

 例えば知人の例で言えば、お子さんが不登校になった時点で、知人はどうすれば良かったのか。外で遊び歩かず、ちゃんと食事を作れば、お子さんはまた学校へ行けるようになるのか。そんな事は分からないが、親が必要な時に家にいてくれる事、自分の話を聞いてくれる時間的精神的余裕を持ってくれている事、食事がちゃんと食べられる事は、お子さんにとって、幸せな事だと思う。

 じゃあ、と知人は言う。「遊ばずずっと家にいてご飯を作るなんて、耐えられないから、私は不幸な不機嫌な顔になる。不機嫌だから、ちょっとした事で怒る。子供が不登校なら、不安になって子供を見張る。ニコニコした母親と、すぐに怒るギスギスした母親なら、ニコニコした母親のほうがずっといいでしょ」と。

 いや、違う。やるべき事をしても、不機嫌にならなければいいのだ。周囲に当たらなければいいのだ。その不機嫌さは、自分の中で処理すればいいのだ。お子さんが不登校で不安であっても、その不安をお子さんにぶつけずに、自分の中で処理すればいいのだ。やるべき事をしても、ニコニコした母親でいればいいのだ。やれる範囲で人生を楽しめばいいのだ。自分の生活を楽しむ為に、家族が眼中になくなるのは違うと思う。

 ニコニコした母親になる為には好きな事だけしかしてはいけない。

 イヤな事をしているとギスギスした母親になる。

 何故にその二択なのか。二択で考える根拠が分からない。

 自分の責任を果たしながら、楽しく生きればよいのではないか。楽しく生きる為には無責任にならねばならない、というルールはないと思う。私は厳しすぎるのか。多分そうなのだろう。だから彼女には何も言えない。ただ見守るだけ。

  無責任はラクだけれど、必ずどこかにしわ寄せが行く。結局最後にその後始末は、自分がせねばならなくなる。その事に薄々気づいているから、無責任にラクに生きていてもどこかしら不安が漂う。無責任礼讃ブームは、その不安を捨てなさいと進言している。不安を捨てないから人生を楽しみきれないのだと。

 私は逆に、その不安をこそ、大事にすべきだと思う。その不安こそ真実で、私が生まれながらにして持っているセーフティーネットだと思う。知人はそのセーフティーネットを、捨ててしまったのかもしれない。ネットがなければ身軽だし、気持ちも吹っ切れて清々しいだろうが、落ちたら命の保障はない。