書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

ピュアで生きること

 ピュアで生きる事を、ある時から心掛けるようになった。

 私の勝手な解釈だけども、ピュアで生きるとは、自分を誤魔化さずに素直に生きる事。また、結果を求める時にひねったやり方をしない、こずるいやり方をしない、近道しない、素直なやり方で行く、という事。

 極力自分の気持ちを隠さずに素直に自然に正攻法で行動する、それが回り道になったり結果無駄になったり、恥ずかしい思いをしても、構わない。それでいい。それが何とも言えず清々しい。気持ちがいい。

 例えば、最近あまり人と会話してないな、誰かと話がしたいなと思う時、私はほとんど躊躇せずに友達に連絡する。都合が悪ければ断ってくれていい、というスタンスで、お茶しようよ、ご飯行こうよ、散歩しない?と声をかける。気軽に声をかけられる関係である、という事が前提だが、その前提を作る為には近道は通用しなくて、長い間の正直な積み重ねしかない。正直な積み重ねがあった上に、気軽な関係ができて、自分に素直に行動できる状況が生まれる。全部繋がっている。  

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 だからといって、自分の思った通りをそのまま出していくのがいい、とは思わない。誰かを傷つけるような事はできるだけ言わないしない。

 自分の気持ちが誰かを傷つけるなら、それは隠したほうがいいと思っている。自分に素直になれば、自分が「良い感じ」になれるんだけども、自分が「良い感じ」になる為に、誰かを「悪い感じ」にするのは違うと思うので。自分が他者に対して能動的に何かをやる場合の相手への影響力について考える時は、あくまで「自分<他人」であるというのは私の中で固定された価値基準になっている。それは破りたくない。

 勿論いつも「自分<他人」であるわけではなく、他者に能動的に関わっていかない部分については「自分>他人」。そして、その自分をできるだけ誤魔化さないことを心掛けている。

 こういう事はまるで正論のように聞こえるかもしれないが、私の中では、正論とは一線を引いている。正論とは、倫理的に正しい事だが生身の人間には実行不可能な事を言う、と私は思っている。

 ピュアで生きるとは、時に倫理に反する事もある。なぜなら、生身の人間である私という人間の気持ちに素直に生きる、という事だから。私は倫理よりも、場合によっては自分の気持ちに素直になる事を優先する。但し、誰かを傷つけない、という前提のもとに。