書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

決断は快・不快の天秤

 嫌な事があったら、単刀直入に「それは嫌」と相手に伝えるべき、という意見をよく聞く。「それは嫌」と伝えるだけ伝えて、あとは、どうするかは相手に任せる、と。つまり、やめてくれるか、くれないか、は相手が決める事なので、そこは自分の範疇ではない、と。伝えるだけ伝えて、後は相手の判断にゆだねる、と。そういう人間関係の対処方法を推奨する方は多い。 

 しかしながら私は、あまり相手に「それは嫌」とは伝えないほうだ。例えば、前回書いたくしゃみを例にとれば、夫なり実母なりに、「あなたのくしゃみが嫌」とは私は伝えない。いや、厳密に言えば、過去に数回伝えた。そしてやめた。

 夫に「鼻かめば」と言ったら、夫は「くしゃみするほうが気持ちがいい」と答えたので、「私が聞いてて嫌なのよ」と伝えたら、ものすごく不愉快そうな顔をされて、あてつけのように更に大きなくしゃみを数回されて、それからいかにも嫌そうにダラダラと動いてティッシュのある場所まで移動して、嫌そうにダラダラと鼻をかまれた。2、3回そういう事があって、私は考えてしまった。「それは嫌」と伝えて不機嫌な顔をされる不愉快さと、自分がその場から去る面倒さ、を天秤にかけ、その場から去る事のほうがはるかに自分にとってラクだと感じたので、それ以来、夫のくしゃみ連発が始まったら、何も言わずにその場から去る事にしたのだ。

 母の場合も同じで、「鼻かめば」と私が言ったら、母は「くしゃみするほうが気持ちがいいのよ」と答えたので、「私が聞いてて嫌なの」と伝えたら、母は「あなたは嫌かもしれないけど、私は気持ちいいから。私は困らないから」というような主旨の事を答えた。くしゃみに限らず、何かを拒否する時の母の理屈は「私は困っていないから」というものなのだ。「困っているのはアナタであって、私ではない」と。そう言われたら私にはもうなす術がないし、母にそういう事を言われるのは実はしんどい。なんというのか、「あなたは子供、私は親、身分をわきまえろ」的な冷たい言葉に聞こえるのだ。できれば言われたくないから、母に頼み事は極力しない。

 シンプル思考を推奨している方が、「自分が嫌な事を『それは嫌』と伝える事ができる事が、自分のプライドを守るという事だ」みたいな事を仰っていたが、私はあまり共感はできない

 プライドとは何かと言い出すと、話が煩雑になるのでちょっと横に置いておくが、自分が嫌な事を、嫌だと自覚する事は大事なことだと私も思う。だが、自覚する事と、それを相手に伝える事は、これは別の話だろうと思う。

 必ずしもこちらの希望を聞き入れてくれる保証はなくとも、不愉快な反応は返さないと分かっている相手であれば、「それは嫌」と伝える事は意味がある。でも、そういう人は少ない。「それは嫌」と言われたら、たいていの人は「批判された、駄目出しされた」と感じて自己防衛をはかる。過剰に反応したり、「お前のほうが、ずっと悪い」的な仕返しをしてくる。「それは嫌」を伝えるか伝えないかは、だからケースバイケースで、伝える相手を見て、つどつど判断すべきだろう。

 「それは嫌だ」と相手に伝える事で、引き起こされる面倒や、相手から返ってくる耐えきれない不愉快さを考えると、「伝えるだけでいい、ただそれだけでいい」みたいなシンプルな話ではないと思うのだ。人間関係を、シンプルに割り切ろうとする人には、いつも少なからず違和感を覚えてしまう。人間ほど不条理で不合理で割り切れない存在はいないと私は思う。

 

 「それは嫌だ」に対して、どう対処するか、についても、同じ天秤が存在するのだと思う。相手の要求をのむのか、拒否するのかは、拒否した時に自分がどれだけ不快な思いをせねばならないか(不利益を被るか)によって、判断しているのだと思う。

 先の夫を例に挙げれば、私に「くしゃみが嫌だから鼻をかんでくれ」と言われて、夫がかむか、かまないか。かまなければしつこく「かめ、かめ」と言われるだろう、そのしつこさを我慢するのはしんどい、と夫は思ったのだろうと思う。このままくしゃみを連発する事の快感と、私にしつこく「鼻かめ、鼻かめ」と言われる不快感を天秤にかけ、ほんの少し不快感が勝ったのだと思う。でも、それはほんの少しの差だったから、すぐに鼻をかみに行くのも忌々しく、ゆっくりダラダラあてつけがましく動いたのだと思う。また、その後、天秤の内容が変わる。自分がくしゃみ連発しても、私に「鼻かめ」とは言われなくなり、その代わり部屋を出て行かれてしまう、という風に。つまり、くしゃみ連発の快感と、部屋を出て行かれてしまうという不快感、という新しい天秤については、快感のほうが不快感を勝ったので、夫はくしゃみを連発するのを止めないのだろうと思う。

 全てがそうだとは言わないが、私達はわりといつも、快感と不快感を天秤にかけて、行動しているように思う。だから私達の言動には、表面的には一貫性がないように見える。私達は、ツジツマの合わない事をよくやるし、言っている事とやっている事が違ったり、後悔すると分かっていて間違いのほうを選ぶ、という不条理な存在に見える。でも、根幹の部分では、自分の快・不快の感覚に従って生きているのだから、それで良いのではないか。良い、というか、それが自分に無理をさせない、という事だと思うし、こう考えれば、他者の言動にも理不尽さを感じずにすむと思う。

 なので私は、夫や母がくしゃみ連発で鼻をかまなくても、「何故?」とは思わない。彼等にとってそれをする事で迷惑がられる不快さより、迷惑省みずにやり続ける快感のほうが勝るのだろうと、思うだけだ。そういう人なのだなあと。

 誰かに親切にする時、誰かと意見が異なる場合に自分が折れる時、相手の為にやっているようで、実はそうする事が、そうしない事よりも自分にとって「快」だから、やっているのだと私は思っている。なかなかに大変な事を頑張ってやっている時も同じで、頑張ってやっている事が、やっていない事よりも自分にとって「快」だからやっている。それが究極に天秤にかけて「不快」が勝れば、人に親切にもしないし、頑張る事も私はしない。だから人に親切にしてもそれは自分の為だ。例えば子育てを私はわりと頑張っているほうだと思うが、どこまでも私が好きでやっていることだという自覚がある。

 結局のところ、何を『快』と感じ、何を『不快』と感じるのかは、その人の人格そものもに値する、と書いてしまうと、驕り過ぎで辛いが、でも、私は本当にそう思っている。快・不快の天秤は、持って生まれたものでもあるし、また、経験で変わっていくものでもある。そしてその天秤は、その人そのものだと思う。

 *追記:長くなりすぎたので、少しでも読みやすくなればと、ポイントだけ太文字にしてみた。