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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

夏の準備、冬の準備、と自己実現

 今年の春はなんだか様子がおかしく、肌寒さがいつまでも残っていたが、ここに来てやっと、半袖がちょうどいい気温になってきた。そろそろ夏の準備をしようと思い、腰を上げた。

 私の場合、夏の準備は以下の3点。電気絨毯をしまって、扇風機を出す。エアコンを掃除する。そして衣替え。

 リビングに敷いてある電気絨毯(表面がビニール)を水拭きしベランダに一日干してから、専用の箱に入れてクローゼットの上に収納する。入れ替わりに扇風機を箱から出して組み立てておく。

エアコンは、リビングと各自の部屋にあるので4台。埃よけのガーゼ風のカバー(分かります?)を外して洗濯機にいれ、蓋を開けてフィルターを外して洗って干し、エアコン掃除用スプレーを各機にシューッとして一日蓋を開けたままで乾かす。スプレーの説明書きには、1台のエアコンにつき一本使う、と書いてあるが、私は4台に1本でやってしまうが、特に汚れや匂いが残るという事は無いように思う。エアコン掃除を業者さんに任せていた頃もあったが、今は自分でやってしまうほうが簡単な気がしている。フィルター掃除も含め全部ひっくるめて1台に10分もかからないし、仕上がりにもさして差を感じないので。

 衣替えは、棚やクローゼットの取りやすい位置に夏物を入れ、下のほうや奥のほうに冬物を入れる、という単純作業。あと、かさ張るダウンは表面を水拭きして干してから丸めて押入れにしまう。ダウンをクローゼットにかけたままだと場所を取り過ぎるので。帽子や靴や鞄も、夏物と冬物で、取り出しやすい位置を交換する。この衣替えのタイミングで、着用率が低かったものは処分する事にしている。

 ちなみに冬の準備も、同じ事をやる。扇風機を拭いてからしまって電気絨毯を出し、エアコンを掃除して、衣替え。この作業を終えると、本格的に季節が入れ替わるんだなーと実感できて、何気に楽しくなる。冬の後の夏も、夏の後の冬も、楽しみに思えるのが不思議だ。夏の準備を終えた今も、夏の暑さがちょっと楽しみに思えている。絶え間ない蝉の鳴き声とか、ノースリーブで肌を焼かれながら外を歩く時のあの感覚とか。その場になってみると絶対に疲れるし不快なはずなのだが、今、想像の中の夏は、とても楽しい。

 ところで話は変わるが、「自分を諦めないで」的な言葉を、最近とてもよく聞く。自分の適性を正しく知り、自分の能力を十二分に活かして充実して生きましょう、という事なのだろうと解釈している。自己啓発に染まっている姉が、「仕事を始める」と言い出した。彼女の職歴と言えば、大学を卒業して縁故で入れてもらった企業を半年で辞めてしまった事だけだ。それ以来ずっと専業主婦なのだが、ここに来ての「自分を諦めないで」ブームに乗っている。「自分の適切な能力」=「別に努力しなくても、自然に出来てしまう事」という自己啓発のお決まりのセオリーに乗っ取り、「習字を使った仕事」を始めるらしい。確かに彼女は小さな頃から字が上手かった。習字を使った仕事って何があるの?と尋ねたら、「お習字教室を開く等、人に教える事は苦手なので、レタリングやデザイン文字の仕事を探している」と言っていた。「でも、同じ事を考える人は多いみたいで、ぜんぜん仕事がない」とも言っていた。うーん。

 自己実現を叶える為に、日がなネットで仕事を探す(そして見つからない)日々が、自分を諦めない事になるのだろうか、、、。ちょっと私には分からない。大事な労力と気力を疲弊させるだけだとは言わないけれど、もしこの「自己実現ブーム」がなければ、彼女は絶対にそんな事はしなかっただろう、という事だけは分かる。

 何かで読んだのだが、人が死ぬ時はたいてい「もっとやりたい事をやれば良かった」と悔やみながら死ぬらしい。だから、生きている今、もっと自分がやりたい事をどんどんやっておきましょう、というような主旨の事が書いてあった。

 その文章を読んで私が思ったのは、死ぬ直前のひと時の自分の気持ちを、そこまで重要視する必要があるのだろうか、という事。今この瞬間の私の気持ちと、死ぬ直前の私の気持ちとは、同じ価値があるのではないか、という事だ。死ぬ直前の気持ちだけを、ことさら優先するべき理由が分からないのだ。今の自分の正直な気持ちとして、何も悔やむ事がないのなら、それでいいんじゃないか、と思う。何も悔やまない穏やかな気持ちで生きた結果、死ぬ直前で「もっとやりたい事をやっておけば」と一瞬悔やむのだとしたら、もうそれはそれでいいや、と私は思う。

 そしてもっと思う事。「悔やむ」という状況にも、強弱があるという事だ。とても悔やむ、死にきれない程悔やむ、死んでも怨念が残るほど悔やむ、という後悔はさすがにしたくないが、「もっとこうしておけば良かったかも、、、」的ないわゆる無い物ねだりの悔やみ方なら、それほど重要視する必要はないのではないか。どんな生き方をしたって、人間、完璧に満足できるはずはないのだから、何かしら死ぬ時には悔やむだろう。

 ちょっと心に残っている話があって、ある霊感の強い人が、関ケ原の合戦の跡地に行った時、石田光成側の陣営に立った時は、何も感じなかったらしい。本来負けた方の陣営だから、悔やみの念など残っていそうなものだが何もなく、ただ風が爽やかに吹き抜けていただけらしい。対して、勝った側の徳川家康陣営に立つと、激しい頭痛や吐き気に見舞われ、とてもその場にいられなかったらしい。何故、勝った側の陣営にそれほど強い悔やみの念が残っているのか?と不思議になって、後でその人が調べてみたところ、家康陣営では、打ち取って来た光成側の武将達の首を運び込み、並べて、家康が直々に首実験したそうなのだ。それが武将達(の魂)にとって、とてつもない屈辱であった為、その恨みの念が今でも合戦跡地の家康側に残っているらしい。

 武将達にとって、合戦で命を落とす事は、端から覚悟の上で、打ち取られた事はそれほど強い悔やみにはならないが、己の首を敵方陣営に並べられた事は耐えられない悔やみになったのだ。

 悔やみ、というのは色んな種類がある。強弱もある。一番強い種類の悔やみとは、だから、屈辱の念、なのかもしれない、と私は思うのだ。「ああすれば、私の人生、もっと楽しかったかもしれない」的な、上を向いた悔やみは、まあ悔やみではあるが、それほど強くはないのではないか。

 「死ぬ時悔やまなくていいように、自分の人生を諦めず、自己実現に励もう」という掛け声が、私にはあまり響かないのは、こういう考え方をしているせいなのだ。私はさほど、自己実現したいとは思わない。それよりも、穏やかな今日一日が大切だ。死ぬ時少し悔やむかもしれないが、まあ、いっかと思っている。