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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

発達障害児に勉強を教える~その⑦(国語)

 国語に関しては、苦手科目なので、平均点が取れれば由、と割り切った。息子には全く読解力が無いのだ。彼は生まれてこのかた、本を一冊も読んだ事がない。

 苦手な事に関しては、細かく見ていくと良いと思っている。そうすると、本当に手も足も出ない分野だけではない事が分かって来るからだ。国語でいえば、読解力は全く駄目だが、古文・漢文はまだなんとかなるし、要約力と作文力は、努力すれば多少は身についていく事が分かった。そして漢字と文法を覚える事はむしろ得意だった。

 それで、読解を勉強する部分に時間を割いても無意味だから止めて、その代わり、漢字と文法、古文・漢文で点を稼ぐ方法をとった。また、基礎力として要約と作文も地道に勉強を続けた。

 

<私の予習>

特になし。

 

<子供に教える>

1・教科書の範囲の漢字を、覚えさせる。文法や古文漢文が範囲の時は、「まるごと」や「くわしく」を使って、覚えさせ、問題集をさせる。

2・教科書の範囲のところを読み、内容を説明し理解させる。

3・「教科書ガイド」を一緒にやり、内容を覚えさせる。

4・教科書や時候に則したテーマを与え、2段落ぐらいの作文を書かせ、添削する。

 

以上。

 定期テストに関しては、出題文が決まっているので、教科書をしっかり読み込み、教科書ガイドで例題を解き、この問題ならこの答え、という風に丸暗記する事で、読解問題にも多少は対応できた。 

 要約と作文については、短い作文を書かせる事を日常的に繰り返しやったのと、長期休暇で、5段落ぐらいの長い作文を書かせる事と、そこそこ長い現代文を読ませて要点をまとめさせる事(要約)を繰り返しやった。

 作文は、いくつかのパターンを覚えさせれば、少なくともそのパターンに沿って書く事はできるようになった。パターンが身に着くと、多少応用もできるようになった。ただ、出された「お題」の解釈を間違えてしまう事が多く、語彙力の貧困さ、言葉の理解力の低さに、作文でも足を引っ張られた。

 要約力は、国語だけでなく、実生活でも広く必要になる力なので、できるだけ沢山文章を読ませて要約させる事は続けさせた。読解と要約は違う。行間を読まねばならない読解は無理だが、書かれた事をまとめればいい要約は、まだなんとか食い付いていけた。時事的な話題(フィクションではなくノンフィクション)なら読める息子に合わせ、新聞の日曜版などから適切な内容や長さの文章を取り出して読ませた。

 要約のやり方として、各段落の一番最後の1文を抜き出す事をまずさせた。一番最後の1文に、その段落のまとめが書いてある事が多いからだ。各段落の一番最後の1文だけを抜き出していったものを、まず作る。これが「叩き台」になる。この叩き台を通しで読み、これで全体の内容がある程度分かるなら、それで由。不足があれば少し足し、必要ない所は削る。そういう取捨選択を息子にさせる事で、要約力をつけさせていった。

 乳幼児期の頃から読み聞かせは十分過ぎるほどやってきたのだが、残念ながら、本好きな子供にはならなかった。ただ、読み聞かせは親子の絆を深めるのに役立ったし、寝る前に絵本を読んでやる習慣は、ルーティンの一つとなり、子供の心を睡眠へ向けさせるのに役立った。本好きにはならなかったが、読み聞かせが無駄だったとは思わない。

 ただしかし、「読解力がない事」「本を読まないことからくる語彙力の貧困さ」はいかんともしがたい。読解力がないのなら、読解力をつけさせればいいじゃないか、と思われるかもしれないが、読書に全く興味がない息子に、無理に本を読ませても、ただ物理的に読むだけで、頭に入っていかないのだ。一瞬前に読んだ行の内容を、次の行にうつった時点で忘れ去っていることの不可思議さ。興味がない事は一切入っていかない脳を前にして、茫然とするしかないこの無力さ。この感覚は、こういう子供を持った親にしか、分からないと思う。努力して何とかなるのなら努力は惜しまないが、努力が通用しない部分に努力する事は無益でしかない。

 勉強に限らず、努力で出来る事はさせる、でも、努力してもどうしても出来ない事は無理にさせない諦める、これは発達障害児を育てる上で、必須な考え方だと私は思っている。ただ、苦手な事については、国語と同じで、よく見ていくと苦手な中に、それでもまだマシなこと、努力で少しは上達する事がある。そこは諦めずに続ける事にしている。

 例えば、「友達を作る事」は子供に推奨される事だが、息子は苦手だ。努力したら友達が作れるなら、努力させる事は必要だと思う。私も息子が小さい頃は、気が合いそうな子を見つけて自宅に呼び、一緒に遊ばせる事を続けていた。だが、読書と同じで、息子が友達を作る事はなかった。息子が孤独好き、ということではない。人の輪の中にはいるのだが、ただニコニコ笑っているだけで、会話に加わる事はないのだ。自分の心を割って誰かと話し込む、という事もない。心を打ち明けあわない間柄というのは、子供の世界であっても、ただの知り合い止まりで、友達にはならない。「友達は大切だ。友達を作れ」と多くの大人が息子に言ってくるが、私はもう、息子に「友達を作れ」とは言わない。生きていく上で友達は必要だが、出来ないものが仕方ない。

 ただ、広く「人間関係を作る事」という風に考えて細かく見ていくと、「同年代の友達」は作れないが、「知り合い」は作れるし「人の輪の中にいる事を楽しむ」事はできる、また「年上の友達」なら作れる事も分かってきた。それで息子は、同年代にこだわらず、過去に知り合った人達の中で、年齢関係なく仲よくなれそうな人と連絡を取り続ける関係を保っている。例えば、小学校の時の塾の先生や、学校の用務員のお兄さんや、年の離れたいとこ達等だ。同年代の友達はいないが、それでも、心を打ち明けて話せる存在を作る事はできた。今はそれで由としている。

 親がいつまでも「同年代の友達を作る事」にこだわっていては、子供もしんどいと思うのだ。諦める事、捨てる事は苦しい事だが、必要な事でもあると私は思っている。親が、心の迷いを振り切って「捨てる」姿を見せる事で、子供も「割り切る力」を身に付けていくように思う。 

 余談だが、勉強の話に戻る。同じ読解でも、英語・古文・漢文の読解なら、息子は出来るのだ。求められる読解が浅いレベルだからだと思う。これに対し、深いレベルの読解が求められる現代文の読解は、息子には太刀打ちできない。もし、息子と同じタイプのお子様がおられたら、現代文の読解が出来ないから、英語も駄目、古典も駄目、と決めつけなくてもいいかも、と思います。色々させてみると、思わぬ拾い物があります。

 子供に勉強を教えるシリーズ、ここで一旦終わります。