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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

認知不協和という納得

日々の思い

 誰かの発言を聞いて「それは間違っている」と批判する行為をアンチと呼ぶわけだが、従来「アンチは、その対象者への嫉妬心から発生している。アンチ心=嫉妬心だ」と言われてきた。私はこれに、ずっと違和感を感じていた。

 私も、誰かの意見に対して「それは違うんじゃないかな」と感じる事は多い(わざわざ相手に言いに行きはしないが)。「それは違うんじゃないかな」と私が感じる時、相手に対して嫉妬心を持っているとは、とても思えない事が多いのだ。私自身が嫉妬心を認めていないだかだ、と言われたらそれまでだが、どう考えても1ミリも嫉妬していないが、「それは違うんじゃないか」という気持ちはぬぐえない場合が多々ある。

 これは一体どういう事なのか。

 その答えを最近知った。非常に嬉しい。答えは「認知不協和」という事だそうだ。

 認知不協和とはこういう事らしい。「自分と相手との認知に不協和が生じた時、人は強い不快感を感じる。相手の認知が正しいのなら、自分の認知が間違っている事になる。自分の認知=自分が築いてきた世界観である。これが揺らぐ事に大変な不快感を感じるのだ。だから、自分の認知を肯定する為に、相手の認知を否定せずにはいられない」という事のようだ。

 これには本当に納得する。私が誰かの意見に対して「それは違うんじゃないかな」と感じるのは、つまり、私自身の意見を肯定したいが為なのだ。だがその時の私は、相手を批判したいわけではない。相手にわざわざ「それは違うんじゃないですか」と言いに行きたいとは全く思わない。ただ、自分の中で、「あの人はああ言うが、あれは違うんじゃないかな」と考えている。時にその経緯を、ブログや日記に書き残したりもする。そう、私は相手への嫉妬心から「それは違うんじゃないか」と感じるのではなく、自分の意見を肯定的に確認したいが為に、「それは違うんじゃないか」と感じているのだ。

 更に言えば、アンチを集めてしまう人というのは、「己の周囲にのみ通用する世界観を、普遍的な世界観であると勘違いしてしまっている人」なのだとか。確かに、客観性の低いというか、独善的と言えばいいのか、常識の裏を敢えて突こう突こうとしているような意見を、普遍的な世界観として「これが正しいのだ」と発言している人は、アンチを集めやすいと思う。どんな意見を言おうがそれはその人の自由だし、基本的にこの世界、何が正しい何が間違い、と決め付けられるものなど何一つないと思うので、誰が何を発言しようが良いわけだけれど、それを「普遍的な世界観」として「これこそが正しいのだ。これを理解できない人は可哀想」と発言してしまうと、他人の世界観を脅かす事になる。

 何をどう発言しようが構わないし、それは個人の自由だけれど、他人の世界観を脅かしてはいけないのだと思う。自分の意見を、「これこそが普遍的な世界観で、これこそが正しいのだ」と言い切ってしまう事は、それに相いれない人の精神を不快にしてしまう。自分の認知も大事にしないといけないが、他人の認知を否定してもいけない。自分だけが正しいと自分の認知を過剰に肯定する事は、他人の認知を頭から否定する事になってしまう。本人にそういう意識は全くなくとも、理屈で言えばそういう事になってしまうのだから。

 私が誰かの意見に対して、「それは違うのではないか」と感じる時、私は認知不協和を感じているのだ、という事を自覚したいと思う。自覚する事によって、不快感は減るだろうし、私の世界観は世界観として、依然としてそこに存在している事、相手の意見によって私の世界観が消えてなくなってしまうわけではない事を、確認できるだろう。その人の世界観は世界観でそこに在り、私の世界観は世界観でここに在る。そう確認でき、私の心を安定するだろうと思う。

 少し長くなるが、この事を別の視点で書いてみたい。

 「あなたはあなた。私は私。あなたがそう思うのなら、あなたは勝手にそう思っていればいいわ」という風に、他人の意見を頭からシャットアウトしてしまう人がいる。そういう人は、いかにも精神的に自立しているようだが、逆に危いものを私は感じていたのだが、これも認知不協和の逆バージョンなのかもしれないと思った。

 つまり、自分にとって都合の悪い他人の意見は、最初から全く「無いもの」としてしまう心の在り方。自分に都合の良い意見は受け入れるが、都合の悪いものは「そもそも存在しない」としてしまう心の在り方。これが何故起こるのかといえば、自分と異なる世界観が存在する事を認めてしまうと、自分の世界観が脅かされて不快で耐えられないからだ。

 大事なのは、自分の世界観を大切にするのと同じだけ、(自分とは真逆であったとしても)他人の世界観も尊重したほうがいい、という事だ。認知不協和に引きずられて、他人を切り捨てる行為は、その場では一瞬激しい快感を生むだろうけれど、自分が快感を覚える分だけ、確実に相手に不快感を与えている。その危険に気づきたい。と私に言い聞かせる今日この頃だ。