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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

みんなで承認欲求

 承認欲求は、誰しもが持つ欲求(勿論私も)だが、その表し方は複雑だ。多くの欲求と同じく承認欲求も、持っている事が恥ずかしいと思われているからだと思う。

 自虐のようにみせかけて、最終的には自慢にもっていくパターン。または謙虚に自己否定してみせる事で相手から「そこまで自己否定しなくても」という言葉を引き出すパターン。

 いずれにしても自分について、そのままスルッと語れる人はあまりいない。

 例えば、子育てで、「子供が言う事聞いてくれなくて、しんどい。疲れた」とストレートに言って終わる人は少ない。これだと人から誉めてもらう要素が無いからだ。そうではなく「私は子供を愛している。その愛が強すぎて、過剰に気にしすぎてしまう。子供は自分で育つ力があるのだから、もう信用してあげなきゃいけない。いつまでも母親が抱いているわけにはいかない、、、etc」という方向で語る。こう語ればなんらかの承認は得られるから。

 本当は、子育てなんて、しんどくて疲れるのが当たり前なのだから、それをそのまま言ってみても何も悪くないと思うし、その人が、人間的に劣っているわけでも何でもない。ごく普通の親の反応だし、気持ちだし、なんなら生理的反応と呼んでもいいぐらいなのだけれど、それをそのまま語ってしまうと「認められ要素」がゼロだからつまらないのだ。愚痴を言っても最終的には誉められたい、認められたい、それがこういうひねくりまわした話し方になる理由だと思う。

 恋愛の話でも、相手を好きだ、嬉しい、楽しい、フラれて苦しい、つらい、嫉妬心で心が乱れる、何でもいいけど、そういう、自分の気持ちをそのまま語る人は少なくて、なんだか2回も3回もひねって、好きなのに自分に自信がなくて、自分なんかが好きでいちゃいけない、とか。どうしても、相手の幸せを優先して考えてしまって悲しい、とか。何でも一人で出来る自分が哀しい、とか。自分を否定しているテイで、実はけっこうな自慢を入れる。私もやっていると思う。

 仕事の話も同じで、やたらと冷めて引いて私なんか最低なんですよ、という前提がまずあって、そこからその「最低の私」が実はすごいんだ、という方向を匂わす。

 まあいずれにしても、みんな相当不自然なやり方すら駆使して「私を認めて」「私を誉めて」と頑張っているのだと思う。もちろん私もその中の一人で、自分を他人から認めてもらう為に、日々言葉を吐いているのだろうなと思う。

 みんな、自分を認めてもらうのは好きなんだけども、他人を認めるのはあまり好きではないから、この需要と供給のアンバランスが、いろんな不足感や物足りなさやストレスを生み出しているのだろうなと思う。

 昨日はとてもあたたかく、買い物帰りに通る公園では、早咲きの桜が咲いていた。眩しい日差しの下で見る明るい花色は、なんと心地よいものか。様々な感覚が年を取るごとに鈍っていくのに、この幸せ感は、何故か年とともに増している。公園のあちこちで、今にも咲きそうな花の蕾が、赤やピンクの色素を握りしめている。あれらが咲いたらどんなにきれいだろう。青い空とあたたかい風と、咲き始めた花たち。あたたかいだけで体は軽くなるしもう至福。

 年中このあたたかい風と青い空が続くのであれば、承認欲求など求めて行く気もしなくなるだろう。心地よさで満たされてしまって、それ以上の欲を求めない。以前、米国西海岸に住んでいたのだが、一年中日本の春のような陽気で、海があって、雨が少なくて、ああいう土地では人はあまり着飾らない。身に着けているもので、その人の経済状況を窺い知る、等ということは不可能だ。個々人がもう、生きている環境に満たされているからだろうと思う。経済的に許されるならもう、ただ一日中プールサイドに寝転んでしまって、怠惰に堕ちていくのは如何ともしがたい。

 承認欲求が向上心ややる気に発展していく事は、わりとある事だと思う。そういう意味では、承認欲求は忌み嫌うべきものでもない、と思うのだ。多くの「欲求」がわりと恥ずべきものとして隠されるけれど、人間の持つ「欲求」というのは、それが人間にとって必要だから、持つのだと思う。「欲求」を持っている事を恥ずかしがる必要はないのではないかな。まあ、マナーとして、「自分の欲求」をむき出しにするのは控える、ぐらいで良いのではないかと思う。

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