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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

人に注意するという事

日々の思い

 少し暗い話かもしれない。

 私の母親というのは、私に注意する時に、小馬鹿にするような揶揄するような言い方をする人だった。「〇〇をすると、こういう不都合があるから止めたほうがいい」という注意の仕方ではなく、「アナタはどうして○○なんかするの?馬鹿なの?」という言い方をした。私の行動の、どこがどう悪いのか、どう直せばいいのか教えてくれず、ただただ私の人間性そのものを否定するだけだった。

 まともな会話がなりたつ前の乳幼児期は、私が母の気に入らない事をすると、今なら虐待と言われるような事をされて反省を促されていた。例えば、お客さんの前ではしゃいでしまうと、お客さんが帰った後、全身を紐でぐるぐる巻きにされて寒い玄関に放置された。私が「ごめんなさい」と謝るまで、そのまま放っておかれた。1歳や2歳の子供に、人前ではしゃぐ事が罪だと理解できるはずはなく、当然私は、何が悪かったのか分からず、謝るべきだという事も知らなかった。そして生来の不器用さもあったのだと思う。とりあえず謝る、という事に頭が回らなかった。そういう私は母から「なんて強情な、なんて頑固な子供なんだろう」とうんざりされた。

 私の母は、悪い人では全くないが、きつい人ではある。特に、口調がきつい。私の兄弟はそんな母が嫌で、家出した。大学に通う為に我が家に下宿する事になった従妹がいたが、数日で音を上げて出て行った。母の小言の口調がきつすぎて、耐えられなかったからだ。母は、自分より目下の人間(子供も含む)に対しては、相手を見下すようなキツイ言い方をする人だ。自分より目下の人間は、自分のそういう我の強い言葉を、我慢して聞くべきだと考えているからだ。母は他人に私のことを「とても育てやすい子供だった」と語る。それは、私が母に口答えせず、唯々諾々と言いなりになり続けたからであり、小学校に上がった頃からは、母からキツイ言葉を投げつけられるのを避ける為に、母には一切の落ち度を見せないように、母の前では徹底的に気を張り緊張し、下手を打たなかったからだ。私は母の愚痴の聞き役であり、自慢の娘であり、ストレスのはけ口だった。

 だが、育ててもらった事には感謝しているし、母に感謝している事は他にも沢山ある。それでも、母の言葉で徹底的に傷つけられた、という事実に間違いはない。今、私は中年を過ぎ、母は老年となった。最近、母が過去の自分の言動を悔やむ場面を、よく見るようになった。私はそれを受け止め「悔やむ必要はないよ、お母さんはいい母親だったよ」という言葉を告げる事で、育ててもらった感謝にかえている。ある意味母が反面教師になってくれたおかげで、私は息子に対して、我を控え根気よく育てる事ができているからだ。自分がされてあまりにも辛かったから、同じ辛さを息子には味あわせたくない、という思いが強力なモチベーションになった。特に息子は発達障害なので、強いモチベーションがあったおかげで、子育て中に心が崩れてしまわずにすんだ。

 人に注意する、という事は難しい事だと思う。

 何よりもまず、その「注意」が、本当に相手の為のものなのかどうか、よくよく考えてみる必要がある。ほとんどの場合、相手の為だと言いながら、自分の為であったりする。それは、親が子供に注意する場合でもそうだ。子供の為、と言いながら、親自身が後々困らないように、前もって手を打っているだけの事だったりする。将来子供が困らないように、とアレコレ躾けているのは、実は子供にさっさと自立して欲しい親の希望からだったりする。少しでも早く自立して、私の手を煩わさない存在になってくれ、というような意図が、奥底にはあったりする。99%子供の為の注意であっても、1%でも親自身のご都合主義が含まれているなら、それは、親の為でもあるのだ。「あなたの為を思って言っているのよ」という台詞は厳密に言えば欺瞞だ。

 であるならば、誰かに注意せねばならない状況になったら、注意ではなく、提案、もしくはお願い、といった体で行うのが、適切ではないかと私は思う。私は息子にはそうしている。

 そもそも、人から注意されて喜ぶ人はいるのだろうか。誰かに注意する時は、相手の人間性を否定するのではなく、相手の行動の不備についてのみ言及し、何故その行動が不適切なのかを、相手に分かるロジックで、論理立てて相手に伝え、解決策としてはこうしたら良いのではないか、とそこまで提案すれば、その注意は相手にとって受け取りやすいものになるのではないかと思う。感情で叱りつけ、頭ごなしに反省を促し、解決策は提案しない、という注意の仕方では、子供は戸惑うだけだ。

 親が子供に注意する時、「何故そんな事をしたの?」という文言で子供を責めるのは、だから不適切だと思う。何故なら、実際のところ母からそんな注意の仕方をされても、子供だった私は、どうしていいか分からなかったからだ。何がどう悪いのか、どうしたらいいのか、理解できなかった。ただ、自分が親から注意された事だけは理解できるから、プライドだけが無駄に傷つくだけだ。

 親から注意されたぐらいで、いちいちプライドが傷つくなんておかしい、と感じる方もおられるだろうが、だからそこは「言い方」なのだ。同じ「何故そんな事をしたの?」という言葉でも、子供の気持ちを引き出す目的で優しく言われるのであれば、子供も傷つかない。だが、親のイライラを子供にぶつけ、子供を責め立てるように言うのであれば、同じ文言であっても子供は傷つくのだ。もしその注意が、子供を否定せず、子供の言動のみに言及し、論理的に間違いを説明して解決策を提示したのだとしても、その「言い方」が、子供を見下したいわゆる「親風を吹かす」ような粗雑なものであれば、そういう「粗雑な扱いをされた」と感じて、子供は傷つくのだ。普段から何かと尊重してもらっている子供なら、たまに粗雑な言い方をされても大丈夫だろうが、生まれた時から雑に扱われて育った子供ほど、承認欲求に対する飢餓感があり、馬鹿にされる事に対するアレルギーがある。花粉症と同じで、雑に扱われる量が成育期間中に体に振り積もりそれが一定量を超えれば、少しの雑さに対しても過敏に反応して発症する。こんな言葉ぐらいでキレるなんて子供がおかしい、と親が思う時それは、その時その言葉だけに子供が反応しているのではなく、生まれた時から降り積もった雑さに対するアレルギー反応なのだと私は感じる。もちろん個人差はあるが。

 親が子供に注意する時は、子供の行為にのみに言及し、子供に分かる言葉で、ロジックだてて、「どこが何故悪いのか、どう直せばいいのか」を伝える必要がある、と私は思っている。それはとても面倒くさい作業だし、根気もいるが。そして、それだけの労力を払っても、そうやすやすとは子供は理解してくれない。私の子供など、何度同じ事を懇切丁寧に説明しても分かってくれなかった。子供というのはそんなものだと思う。あまりしつこく言うのはこれもまた、逆効果になる。

 それでも、育ちあがった今頃になって、小さい頃に私から言われた事を思い出して、態度を改めている息子の姿が見られる事がある。子供の心を傷つけないように、でも、伝えておきたい事は、面倒がらずに丁寧に説明する、その時はまったく伝わっていなくても、時間とともにゆっくりと理解が進む、という事もあるようだ。

 繰り返しになるが、注意する時に大事なのは、その「言い方」だと思っている。それは当然、親が子供に対して注意する時にも、言える事で、子供だからと小馬鹿にしていいものではないし、雑に扱っていいものでもない。それで子供が、素直に注意を聞いてくれるのなら、それは、子供が素直なのではなく、子供が親を我慢しているだけの事だ。親から嫌われたら困るから、親の雑な言い方に耐えているだけの事だと思う。親に反抗して言い返せる子供ばかりではない。私のように陰にこもる子の場合、早い段階で親を諦めるか、諦められない子供は親を刺したりするのではないか。

 まあしかし、将来子供から刺されたくないから、子供を雑に扱わない、というのも、結局は我が身かわいさであり、自分の為の行為である。結局私は、自分の為に生きている。母をあれこれ言えないのだ。そもそも私は、間違いだらけの人間なのだし。ただそれでも、一番小さな人間関係であるこの家庭、夫と子供と私でできている自分の家庭を、平和にしたいと思っている。私のこの家庭の中で、誰かが不幸であったり、過剰に我慢をしていたり、辛い思いをしないように、今までも考えて動いてきたし、これからもそうしたいと思っている。その為に、「注意する」という行為について、注意深く考えてきた。不適切な注意の仕方を、その家庭の構成員の誰かがやっていると、その家庭は幸せにはなりにくい、と私は思っている。