書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

単純さの怖さ

 単純に生きる事は楽だが時に恐ろしく怖い事態を招く。私は、時と場合によって主義を変えるという柔軟さを持たない人を、「一本筋が通っている」と褒めたたえたくない。昭恵夫人森友学園の奥様といまだにメールのやりとりをしている由、首相が国会で話されていたが、「妻は一度繋がりを持った人とは、自分からは切らないので」とその理由を誇らしげに語っていたが。それは誇るべき精神的美点なのか、と疑問に思う。

 昭恵夫人いわく、「私は、良い事をやろうとする人には、どんどん私を利用していいよ、と言っている。私の名前が信用の為に使えるのだったら、使ってもらって全然いいと思っているんですね」と語っているが。でも森友学園の例を見れば、その人が本当に「良い事」をしているかどうか、昭恵夫人が確証を取っているとは思えない。良い事かどうか分からないことに対して、不用意に自分の名前を貸して信用を与えてしまう事は、むしろ「悪い事」ではないか。悪い事というのは言い過ぎかもしれないが、手落ちであり手抜かりであり、どちらかというと怠惰な態度ではないか。「いつでも私を利用してもらっていいと思っている」と語ればいかにも太っ腹で豪儀な人に聞こえるが、名前を貸す事で昭恵夫人が「辛い思い」をしたり「死ぬほど頑張ったり」する必要はないのだ。むしろ、名前を貸すだけで、自分の指一本動かす事なく相手方から感謝され、心の広い豪儀な善人であると褒めたたえられさえし、そして、名前を貸した事に対する責任は取らない(一旦状況が悪くなれば「勝手に名前を使われただけ。私は善意の被害者」と逃げる事が可能)。自分の名前の「信用」を利用させてあげて感謝される立場なら、同時に責任も生じるはずなのだが、彼女は信用の旨味だけ享受し、責任は取らないようだ。

 シンプルに生きる事が世に推奨されて久しい。断捨離、ありのままの自分、ミニマリズム、、、、。シンプルというのは、言い換えれば「単純」という事だ。単純な思考だけで生きられれば、それはとても楽な生き方だ。だが、危険な生き方でもあると思う。単純なことを、わざわざ複雑にこねくりまわす必要はもちろんない。でも、人間はそんなに単純に割り切れるものではない。人間の行動も、「良い」か「悪い」かに単純にスパッと割り切れるものではない。誰かの行動について何らかの結論めいたものを出さねばならない時、人は時間をかけて頭と心を傾けて検討し、しいて言えば「良いかなあ」とか「悪いかなあ」とか決めて、その結論に一抹の不安を感じながらも、とりあえずではそうしておこう、とするのだ。割り切れなさはどこまでもつきまとう。気持ち悪いけれど、それが本来だと思う。シンプルに単純に表面を撫でただけで結論ずけてしまうのは楽だし気持ちいいけれど、それは真実とは程遠い。だから危険なのだと思う。

 森友学園が経営している保育園幼稚園では、発達障害児は、一旦は入園させてもらえても、手がかかるという理由で退園させられていたと言う。みんなについていけない子供は、罰を与えられていたという。トイレは小学校と同じように休み時間にしか行かせてもらえなかったという。意味の分からない教育勅語を暗記させられ、一定時間で暗記できない子供は罰を与えられていたという。幼児にそういう保育が、適当であるはずがない。それもでも、昭恵夫人がお墨付きを与えている園だから、と、我が子を通わせた親はいただろう。昭恵夫人の名前があるから便宜を図らねばならないと忖度した関係者も多いだろう。そこに対する責任を、昭恵夫人はどう考えておられるのだろうか。おそらくシンプル思考な方にとっては、そこはご自身の責任ではない、という割り切りをシンプルにされて、罪悪感を持つこともなく、今後何かを反省する事もないのだろうと思われるが。

 ただ、もし私だったら、たとえ総理夫人がお墨付きを与えている園であっても、子供が暗い顏をしていたら原因を探るし、園の保育の仕方に疑問を感じたら、速やかに子供を転園させるだろうとは思う。そこは親がしっかりせねばならぬところだと思う。

 昭恵夫人が悪い、森友学園が悪い、親が悪い、関係者が悪い、という風に単純に誰かに「悪」を押し付けることはできない。単純には割り切れない。でも、単純であるというのはラクなのだ。私も疲れてくると、単純思考に逃げがちだ。夫が悪い、子供が悪い、義母が悪い。そう考えて決めつけてしまうと楽なのだ。だがだからこそ危険だ。実際はそれは、現実本来とはかけ離れているという事を、私は、分かっていないといけない。

 

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