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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

必死だが苦労ではない

日々の思い

 私の子供は非定型発達なので、「普通の」人が歩む「普通の」ルートは歩けない。それはもう生まれた瞬間からそうで、死ぬまでそうなのだと思う。

 例えば、生まれて数年は筋肉の発達が遅かったので、親に抱きつくどころか自分の体を支える事すら難しく、抱かれてもダラッと弛緩していたし(だから抱っこしかできなかった。おんぶは無理)立つのも歩くのもとても遅かった。赤ちゃんは親に抱きつくもの、1歳になったら歩けるもの、という前提で社会はできているけれど、私の子供の場合はそうではなかったので、社会の「普通」からはみ出してしまって、色んな場面でつどづと言い訳やら説明をしなくてはならかったし、頭を下げなくてはならなかった。

 言葉を理解するのも遅かったから幼稚園になっても意思の疎通が難しかったし、五感が過剰に敏感だったので、社会の「普通」が、私の子供にとっての「苦痛」だった。子供が苦痛を感じないように、私が様々な手立てを考え工夫して日々一刻一刻を過ごしていた。例えば皮膚が敏感なので着れる服が限られていて制服などは着れなかったし、薬も飲めなかった。子供用のゼリーに入れてとか、そういう方法も全く無理で。持病があったので薬を飲まなくてはならなかったのに、どうしても飲ませる事が出来ず、医師からは叱られるし、それ以前に薬を飲まなければ最悪死んでしまう可能性もあったので、もう死にもの狂いで飲ませていた。毎食後、毎食後、なんとかごまかしごまかし。今、どうやって飲ませていたのか、全く思い出せないのだけれども、とにかく死なせずに済んだのだから、なんとかして飲ませていたのだと思う。必死だった。

 小学生になった頃から、少しづつ言葉も体もしっかりしてきて、生活する分には困らなくなってきたけれど、学校の他の「普通の」生徒さんとは、全く違う子供だったから、やはり「普通」にはいかなかった。色々変わっていたけれど、一番変わっていたのは、競争意識とか、批判精神とか、そういう「他者と自分を比べること」をしなかったこと。そもそも私の子供は、他人にあまり興味がない。それは小さな頃からそうで、親である私にすら興味がないから、私の真似をする、という事も全くなかった。赤ちゃんは親の真似をして成長していくものなのに、私の子供は私の真似をしないから、ことごとく成長が遅れたわけだが。それが小学校になっても続いていて、普通は低学年の子供なら、檀上で先生が何か言えば先生に注目するものだが、私の子供はぼんやりしていた。先生にも興味がないし、だから先生の言う事にも全く興味がないのだ。そういう子供に、勉強を教えるのは至難の技で、やはり私はあれこれ必死で工夫して、なんとか落第しないで済んでいた。

 苛めはもちろん沢山あった。他人に興味のない私の子から、誰かに何かをしかけていく、という事は絶対にありえないので、友達と何かトラブルがあればそれは100%苛めだった。私の子供は、嘘をつく、という事ができないので、それはもう周囲の人間の周知の事実だったので、そこは助かったかもしれない。何かトラブルがあった時、私の子供の言が、100%の事実だと誰しもに信じてもらえたから。苛めはもう、エスカレートする前に一つひとつ潰していくしかない。我が子がいじめられている、という事は親としては何故かとても恥を感じるものだが、親が恥を感じるのが嫌さに、子供がいじめられているのを見て見ぬフリするのは一番いけないと思っていた。だから苛めについても、やはり必死に防いだ。その時々で対応は変えたけれども、とにかく私の子供を苛めてくる子には、「苛めるのは止めてくれ」と恥を忍んで正味でぶつかっていった。

 子育てが少しラクになったな、と思ったのは、中学生になった頃からだ。勉強は相変わらず私が教えていたけれども、ある日突然、教えるのがラクになっていた。理解が早い。忘れないし、応用もできる。また、苛めも下火になっていった。五感の敏感さも減っていったし、だんだんと色んな事がラクになっていった。それでも、私の子供は、普通の人が普通に歩く普通のルートは歩けないので、子供独自の特別ルートを一緒に考えて、作り上げていかなくてはならない。そこは変わらない。

 他の人がどうだとか、あまり関心はないのだけれど、一応今のデータとしては、10人に一人が発達障害だそうで、私の子供のようなグレー児を含めると、6人に一人が非定型発達である、というデータがあるそうだ。一般社会が用意した「普通」ルートに乗れない子供が6人に1人いる、という事だ。6人に1人は、親が、その子の為に、特別なルートを考えてやらねばならない、という事だ。子供自身が、独力でそれを考えるのは不可能だから。子供が集められる情報は少ないし、理解力も低い。どうしても親の力が必要だと私は思う。たとえ過保護と非難されても。

 私を過保護と非難する方は、こういう事を仰る。例えばこんな感じ。

「子供は親の背中を見て勝手に真似をして育っていくから、子供をうまく育てられないからと悩む必要はない。子供は勝手に育っていくもの。子供が親の思うようにならなくても、それはその子がそうしたいのだから、放っておけばいい。親は、自分のやりたい事をやって楽しむ姿を、子供に見せればそれでいい」みたいな。そういう方は、仰るだけでなく、実際にその通りの放任的な子育てをされておられる。

 子供が小さい頃は、私は、自分の子育てが、正しいのかどうか分からなかった。私を「過保護」と非難される方々の子育てのほうが、正しいのかもしれないと思ったりした。でも、子供がある程度育ちあがった今は、自分の子育てで良かったのだと思っている。何故なら、こんな事を言うのはいやらしいのだけれど、私の事を「過保護だ」と非難された方々のお子さんは、今、不登校になったり、極端に反抗的になったり、心を病んでしまったり、仕事につけなくなっているからだ。

 私の子供は、10人に1人、もしくは6人に1人生まれてくる非定型発達者なので、過保護と言われても、丁寧に付き添って、子供に合う人生の独自ルートを探してやろうと思っている。

 私は、私の子育てが「大変」だとは思っていない。必死でやってきたし、これからも必死でやるしかないのだけれど、大変ではない。時々、人から「苦労が多いでしょう。大変ですね」とねぎらわれるが、それはそれで不本意だ。「過保護過ぎだ」と非難されるほうがまだしも受け入れやすいぐらいだ。私は私の子育てを、苦労だとも大変だとも思っていない。ただ、毎日必死だ、というだけだ。これが中々伝わらないし理解もされないのが不思議でならない。親が子供を育てるのは、当たり前のことだと思う。