書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

注意してもらえなくなる年齢

 今日は、地元の神社に御礼参りに行く予定。祈願に通ったおかげで、ある事が成功裏に終わったので。思えばその神社には、この土地に住み始めた17年前から、何かあるごとに通っている。今までその神社に祈願した事で、叶わなかった事がない。子供が健康に生まれますように、夫の仕事がうまくいきますように、あれやこれや、その時々で心にかかっている重荷を、神社に託してきた。

 100%祈願が叶うというのも凄いと思うが、私が、叶う可能性がある事しか祈願しないからなのかもしれない。また、神様にお願いする以上は、私自身が死ぬ気で頑張らねば罰があたる、という気持ちに自然となるのも、願いが叶いやすくなる要因かもしれない。

 神社というのは、甘えた私のような人間の、甘えた願いを、何も否定せずに聞いて下さる。それは駄目だよとか、それは無理だろうとか、何を考え違いをしているんだ、等と叱られる事はない。なんとラクな状況なのだろう。

 考えてみると、そもそもこの年になると、他人様から注意されるという事がまずない。実の親でさえ年をとり気弱になったせいで、私に注意する事をためらっているフシが見られるぐらいだ。他人様は尚更注意してくれない。

 こうやりたい、ああしたい、こうなりたい、と自分の願いだけを膨らませ、人から注意される事なく傲慢に生きて、良い事はないだろう。私に注意してくれるのは、唯一夫だけだ。夫の注意は往々にしてピントがずれているので、そのズレた部分にイラッとさせられるのだが、それでも、注意してくれる存在がまだあるという事は、有難いと言わざるを得ない。夫がいなくなればもう、私に注意してくれる存在は、この世になくなってしまうだろう。そうなれば唯我独尊。あとは落ちるだけだ。

 「人が誰かに注意するのは、一見相手の為を思っての事のように見えて、実は自分自身の都合を良くしたいだけなのだ。或いは、自分の考えを相手に押し付けて自己重要感を得たいだけなのだ」という穿った見方がよく言われる。これもまた真実ではある。だからといって、じゃあ、人からの注意を「どうせアナタに都合よく私を動かしたいだけなんでしょ」と無視してよいか、というと、モノゴトそう単純ではない。99%注意してくるその人間の都合優先であったとしても、人から受ける注意の中には1%は私の為になる部分が入っている。

 神社から思考が飛んでしまった。まずは御札を返しに御礼参りに行って来る。良いお天気で暖かい。