書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

自分に優しい人は他人にも優しい、のか。

 「自分に厳しい人は、他人にも厳しい」とよく聞くが、違和感がある。私の個人的経験だと逆で、自分に厳しい人こそむしろ、他人に優しいと感じる。

 優しいという言葉の定義は難しいが、「他人に寛容で、他人に親切」という意味で捉えるのが一般的だろう。そして、他人に寛容である事はしばしばかなりの努力を要するものだ。他人にイラっとしても、迷惑をかけられても、嫌な事を言われてもされても、いちいち怒らずに流してやる。気にせず忘れてあげる。そんな事を実行するのは、相当自制心が強くないとできない。自律心を必要とする、すなわち自分に厳しいという事だ。

 他人に親切にする、というのも同じ。自己中心的に動くのではなく、他者優先で動く。利他的に動く。これもかなりの胆力を必要とする行為だ。自分に厳しくないとできない。

 翻って、自分に優しい人はどうか、というと、私はむしろ「自分に優しい人こそ、他人には厳しい」ものだと思う。自分に甘い人は、自分棚上げを無意識にできる人で、そういう人は、自分にできない事を他人には平気で要求する。自分がしていない事を他人もしていないと怒る。つまりは幼稚なのだと思う。

 子供の学校の先生を見てみても、しっかりされていて信頼のおける先生ほど、ご自身にはとても厳しいと感じる。このご時世なのに、部活の顧問など引き受けて朝一から夕方遅くまで忙しくされていて、何を聞いても責任を持ってしっかり答えてくれるような先生ほど、生徒達に優しい。生徒の悪さや怠惰さも、ある程度多目に見ているし、叱る時も感情では叱らないようだ。一人ひとりの都合を最大限考慮して融通の利く幅のある指導をされている。

 一方、どうにも信頼のおけない不安しかないような先生は、やたらに生徒に厳しかったりする。規則やルールを嵩に来て、杓子定規な指導をされる。叱る時も感情的だし、叱っているご自身に酔っているように感じる。指導に幅がないようにも感じる。

  私はどうなのだろう?と考える。

 私はもともとは、幼稚な適当人種だ。今は多少、自分に厳しくなってきたかもしれない。人生を舐め過ぎて手ひどく頭を打ったせいもあるし、子供を育てていて苦しい所をくぐり抜ける為に、多少厳しさを身に付けざるを得なかったせいもあるだろう。などと自己評価が甘いところが、幼稚な証拠だ。

 

 ところで、一般的には「自分に優しい人は他人にも優しい」という説が、まかり通っているのは何故だろう。この場合の「優しい人」というのは、「万事につけ、ゆるい人」という意味なのかもしれない。つまり、何事においても鈍感な人。何事についても、どうでもいい、と考えている人。つまり、「適当に生きている人」。そういう人は、自分に対しても適当だし、他人に対しても適当なのだと考えれば辻褄があう。また逆に、「自分に厳しい人は他人にも厳しい」という場合の「厳しい人」というのは、固定観念に縛られた頭の固い人、という意味なのだと考えると納得がいく。いずれにしても、本来の「優しい」「厳しい」という意味からは、微妙にずれている気がしてならない。

 にも関わらず、一般的にはこのずれたほうの解釈が通説になっている事に、私は違和感を感じるのだ。木で鼻をくくったような融通の効かない居丈高の人を指して「あの人は厳しい人だけれど、ああいう人は自分にも厳しいのよ」と言われたりすると、どうにも腑に落ちない。いやいや、ああいう人は案外、自分の落ち度は認めずに誤魔化したり自分ができない事を他人には要求したりするんじゃないかと、思ったりする。自分の子供を放置して注意ひとつしない人が「私は底抜けにお人よしなの。自分にも人にも優しいのよ」等と言うのだが、納得できない事おびただしい。そういう人の優しさや寛容さは、自分に害が及ばない限りにおいて、という限定的なものであって、ひとたび自分に害が及ぶと、驚くほど冷たくなる。そういう場面に遭遇するたび驚かされる。