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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

組織の隙間に落ちる

日々の思い

 つくづく思うのだが、私は他人を信用していない。いや、一人一人は信用しているが、それが組織になった時に信用できなくなる。あ、いや、これも不正確だ。組織は信用しているが、組織の中の隙間の存在には用心しているのだ。

 人が集まって組織を作っている。組織は基本的に合理性を重んじて作られている。が、人間は生(なま)モノなので、非合理的な存在だ。非合理的な人間が集まって、合理的な組織を作っているので、そこにはどうしても、「うまく合わない隙間」が生まれる。この隙間は、組織の中では無いものとされている。この隙間を有るものとしてしまうと、組織の運営がなりたたなくなるからだ。

 私自身は要領の良いタイプなので、組織の隙間をうまく切り抜ける事ができる。が、私の子供はとても要領が悪いので、組織の矛盾や隙間に、ことごとく足をとられてしまう。私は子供を産むまで、組織や他人を疑ったり、組織や他人に対して用心深く構えたり、という事をせずに生きてきた。私が変わったのは、子供を産んでからだと本当に思う。

 子供は様々な組織に属している。家庭、幼稚園、学校、お稽古、塾。大きくとらえれば、住んでいる市。日本という国。

 たとえば、学校の隙間とは何か。「一人ひとりの個性を大切に育む」を唱えながら、実際には一人の教師が40人の生徒を担当している事だ。物理的に考えて、40個の個性を、一人の人間が把握する事は不可能だし、ましてや大切に育む事は不可能だ。教師にできる事は、分かりやすく表面に見える生徒の姿と、分かりやすく自分の耳に入って来る声を、情報として把握する事がせいぜいだ。けれど、表面に真実を見せないのは人として当たり前の事だから、教師の把握している情報は的外れでしかない。その的外れな情報を教師は真実として扱うので、生徒の実態とは噛み合わない。的外れで噛み合わない指導は、生徒にとっては時に有害となる。教師が悪い、と言いたいのではなく、組織の隙間の一例として挙げた。

 最初から、「一人の教師が40人の生徒を担当しているので、一人ひとりの個性など尊重できないし、十派ひとからげで雑にならざるをえません」と言ってしまったらどうか。つまり学校側が、学校教育には限界がある、と認めたら。おそらく、憲法の教育の権利と義務に違反する事になってしまうのだろう。

 私自身はうまく泳ぐ事ができたので、組織に隙間がある事自体、あまり意識してこなかった。だが、子供を産んでからは、強く意識するようになった。子供が組織の隙間に落ちずに、うまく渡っていく方法を、日々考え実行しているが、時に自己嫌悪にも陥る。自己嫌悪というのはつまり、こんな姑息で自己中心的な思考を繰り出す自分に、嫌気がさす、という事だ。

 隙間のある組織でも、もともと力があり歩幅を広く歩める人であれば、堂々と歩いていける。足元を気にせずとも、隙間に落ちる心配はない。だが、足取りも弱く歩幅も狭い私の子供などは、ちょっとした隙間でもすぐに落ちてしまうし、自力で上がってくる事も難しい。まずは落ちない為に、私が常に隣りで一緒に歩き、足元に目を光らせていないとならず、それが私自身を落ち込ませる。私という人間は、なんと姑息で安全パイを望む狭小な人間なのか、と。人を疑う、はなから信用はしない、という事のしんどさ。

 私の子供は、もちろん、人を疑う能力を持たない。人を批判的に見る、という事すらできない。そういう人間なのだ。であれば、私がかわりにそれをやるしかない。「他人を信用できる人ほど、強い人間はいない」と、もっともらしい事を言う人がいるが、そうとも限らない、と子供を見ていて思う。彼は、他人を頭から信用し疑う事をしないが、だからこそ彼は脆弱だ。他人を疑う事はとても苦しい事だが、しなくてはならないのなら、しなくてはならない。