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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

逃げたら追われる

日々の思い

 子供の事について、また少し書こうと思う。私の生活の中で、「これはシビアに辛い」「これの対処は私の忍耐力の限界の極限」と感じるのは、子育てだけだ。子供が小さい頃が一番しんどかったけれど、今もそれなりに、限界が来る。「あー、しんどい、もうここが限界かも」と思う時ある。

 そういう時、私が見つけたコツは、「前のめりに対処する」、だ。

 たとえば、私の子供は、何か気になる事があったり、不安になったりすると、一つの話題を延々質問してくる、という癖がある。同じ内容の質問を、細かく切り口だけ変えて、手を替え品を変え、途切れる事なく質問してくるのだ。それが1時間も2時間も、場合によっては3時間以上も続く。もう、名人芸の域に達していると言ってもいいのではないかと思う。

 例えば、子供が「受験」が気になっていたとする(例え話です)。普通の子なら、「心配だ」ぐらいで終わるだろうが、私の子供は「どんな事があっても受験には絶対に受かる」という確約を、私の口から言わせるまで、質問してくるのだ。そんなの言ってあげたらいいじゃないか、と思われる方がいるかもしれないが、私の子供には口先だけの便宜上の誤魔化しは通じない。もし私が「絶対に受かる」と言っていて、子供が落ちた場合、子供は私を許さない。「お母さんは嘘をついた」と一生恨む。そういう事が過去に何度もあり、私はもう懲りている。私の子供には、その場を収める為の便宜上の嘘は、つけないのだ。だから、子供の質問には、本当の事だけを答えるしかない。そして、真実が子供にとって受け入れがたい場合、子供からの質問は永遠に終わらないという事になるのだ。

「受験に落ちる子っているんかな」「そりゃ、いるやろね。でも真面目に勉強してたら大丈夫よ」「でも、真面目に勉強しても落ちる子っているんかな」「そりゃいるやろね。でも、それは当日風邪ひいたとか、そういうアクシデントがあった場合じゃないのかな」「受験の日に風邪ひく子っているんかな」「いるやろけど、風邪は注意してたら防げるから。マスクと手洗いとか、人ごみの中には行かないとか」「マスクと手洗いして人ごみの中に行かなくても、風邪ひく子っているんかな」「どうやろ。気を付けてたら大丈夫と思うよ」「絶対大丈夫なん?絶対風邪ひかへんの?」「絶対とは言えへんけど」「そしたら風邪ひいたら受験落ちるん?」「薬飲んだら大丈夫違う?」「薬飲んだら絶対大丈夫なん?」「風邪の程度にもよるやろけど」、、、、、こういう会話が延々続く。

 こういう事をおそらく普通の人は、自分の頭の中でやる。誰しも不確定な未来に不安になるし、自分の選択が正しかったのかどうかも不安になる。不安になるたびに、「自分は大丈夫か」「この選択で良かったのか」と頭の中で自問自答を繰り返す。そして、自分なりに納得できる解釈を見つけたり、分からないものは分からないと諦めたり割り切ったりして、その不安をやり過ごす。人によっては、他の人に自分の不安を聞いてもらい、相談して答えなり納得のいく解釈なりをもらおうとしたりもする。

 しかしながら、私の子供のように、延々何時間も同じ不安を母親にぶつけ続ける子供はいないと思う。「そんな話は聞きたくない。うっとおしい」と切り捨てる事も可能だが、私は聞きつづける事を選んでいる。なぜなら、そうすべきだと感じるからだ。もし私が、子供の不安を聞く事を嫌がり、「聞きたくない。言わないで」と強力にキッパリと拒絶したなら、子供は諦めるしかない。私と子供の力関係で、今はまだまだ私の方が強い。私に受け取り拒否されれば、解決できない不安は、子供の頭の中でうずまき続けるだろう。自分で解決できない、自分一人の力では割り切る事ができないからこそ、延々私にぶつけてくるわけなのだから、それを「言うな」と堰き止めたら、子供の心に強いストレスを与える事となる。私の子供の場合、「不安感」というストレスは、量が増えすぎると彼の心を弱め、場合によっては病ませる事になる、と私は感じている。だから、彼の不安感からの質問には、彼の気が済むまで答え続ける事にしているのだ。

 心を病んでしまった方のお話を聞いたり本を読んだりしていつも思うのだが、どうしてそこまで心がこじれてしまうに、誰かに話を聞いてもらわなかったのか。心の不安や割り切れないこだわりを、どれだけグルグルしつこい話になろうも、誰かに聞いて吐き出させてもらえば、心がこじれてしまう事はなかったのに、と思う。誰にも聞いてもらわずに一人で抱えて自分の頭の中だけでグルグルしていると、それは捻じれて巨大化してしまう。「誰かに心ゆくまで、気が済むまで聞いてもらう。相手の時間を浪費して自分の為に使ってもらう」という事をやれば、心が病むまでには至らなかったのではないかと思う。

 子供のグルグルを吐き出させて聞いてやるのは、親の役目だと私は思う。とても不思議なのは(責めているわけではなく、純粋に不思議なのだが)、自分の子供の話は聞いてやらず、他人の話を聞く仕事(カウンセリング職)についている人の存在だ。他人の話を聞く時間があるなら、自分の子供に付き合ってやればいいのではないか、と思う。他人を助ける事にはワクワクできるのに、我が子を助ける事は苦痛でできない、という人が案外多いということが、私には理解できない。誰をも助ける事ができない、というなら分かるのだが、他人は助けられるが我が子は無理、というところが分からない。

 話を、私と子供の話に戻すが、彼の不毛な質問を封じるような事を言ってしまうと、子供は途端に混乱し迷宮にはいりこんでしまう。しつこく聞いてはきていても、どこか本人も着地点を考えながら質問しているのだ。だが、自分の質問を封じるような事を言われると、途端に子供は着地点を見失ってしまう。グルグルモードに入ってしまう。それまでは「自分の望む答えを言ってもらう」事が命題だったのが、グルグルモードに入ると、子供の中で、「この質問を終わらせない」事が命題に変わる。こうなるともう、子供が疲れ切るまで、子供からの質問は終わらない。3時間コースだ。

 私が、質問を封じるような事を言わなければ、質問・答え・質問・答えと繰り返しているうちに、まぐれで子供の気に入る答えを、私が言える場合がある。そうすると、この会話は終わるのだ。1時間とかで会話が終わるのは、こういう時だ。でも、グルグルモードに入ってしまったら、私の答えが気に入るとか気に入らないとか関係なくなる。ただただ、私に、会話の相手をさせる事が彼の大命題になるからだ。

 いつもいつも、子供がこういう質問を私にしてくるわけではない。ごく、たまに、だ。それ以外はとても素直で穏やかな子だ。だが、ある時に、私の方に向かって歩いてくる子供の姿を見て、「あ、ヤバい。質問モードに入ってる」と気づくわけだ。その瞬間に、逃げたくなる。嫌だ、あの面倒くさい、何の意味もない、不毛な会話を、これからやらなければならないなんて、耐えられない、と私は思う。逃げたい。今すぐ、ここから逃げ出したい。でも、私が逃げたいと思えば思うほど、子供はしつこくなる。追いかけてくる。逃げられない。

 なので質問モードに入った子供が、私のほうへ歩いてくるのを見た時に、私はこう考える事にしている。「よし、何でも答えるぞ」と。「5時間でも10時間でも相手するぞ」と。そして、その時にやっていた事を一旦全て中断し、子供の質問に答える体制を整える。そして、子供に対して、こちらから声をかける。「何か聞きたい事があるの?」と。私が、十分子供を受け止める体制を整えているのを見せると、子供の不安感が和らぐようだ。それだけで、しつこさが減じ、質問が拍子抜けするぐらい、あっさり終わる事がある。私が逃げ腰で、嫌で嫌で仕方ないといった風情で答えていた時は、子供も死ぬ程しつこく食い下がってきていたのだが、私が前向きに全部受け止める覚悟を決めたら、子供はもうそれ以上、聞いてこなくなる。

 気持ちというのは、不思議な作用をするのだと思う。こちらが気持ちを変えると、それがあちらの気持ちに作用し、あちらの気持ちを変える。それは、言葉で伝わるのではなく、なんらかの「気」で伝わるように思う。