書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

のんびりと、ダラダラの違い

 生活のほぼ全てが「些事」と言ってもいいような、狭い世界に生きているせいか、どうでもいいような小さい事が気になる。例えば、「のんびり、とダラダラは違うのか」というような事だ。

 例えば、子供はお風呂に1時間入り、20分以上歯磨きをしている。夫は、「行って来ます」を言ってから30分以上家を出ないで何かやっている。家を出る、と決めたのならすぐに出ればいいのに、出ると決めてコートを着てから、思い出したようにビデオの録画をいじり始めたり、なんだかんだやり始めるのだ。夫のトイレも本当に長い。声をかけないと出てこない。かくいう私も、一旦本を持ってソファーに寝転ぶと、余程の事がない限り、動かない。余程の事、というのは、子供から呼ばれた時だ。子供から呼ばれたら、すぐに応える事にしているので。夫は私の事を「いつもソファーでダラダラしている」と言う。

 本人は、のんびりやっているつもりの時、周囲の人間は「あいつダラダラしているなー」と感じるものだと思う。本人達の「つもり」と、周囲の「受け取り」は異なる場合が多く、そういう時、本人の「つもり」が正しいのか、周囲の「受け取り」が正しいのか、どちらが正しいのか私はいつも悩む。

 ある人が、「自分と相手の『つもり』が異なる時は、悲しいね」と綺麗に語っておられたが、悲しいとかそういうきれいごとでは済まされない感情に揺さぶられる事のほうが私は多い。どっちが正しいのかハッキリしてもらわないと、イライラがおさまらない、というような場面が日常には多い。

 それで私は、自分の「つもり」と相手の「受け取り」が異なった時は、常に相手の「受け取り」が正しいとする事に決めている。当人がどう思おうと、受けとり側の気持ちが全てだ、という事に決めてしまった。そうすると、日常に溢れるイライラが、わりとスムーズに流せるからだ。

 日常の些事だけでなく、もう少し複雑な人とのやりとりでも、こういう事はよく発生する。相手を怒らせてしまって「私はそんなつもりで言ったのではない」と自己弁護するような場合、私が発した言葉を相手が誤解して受け取って勝手に怒っているのだから相手が悪い、としてしまうと、問題は永久に解決しない。こういう時は、私がどんなつもりで発したのかはどうでもよく、相手が不快に感じたという相手側の受け取りが100%正しいとしてしまうと、相手にスムーズに謝る事ができ、問題はその場で解決する。

 現実問題で、どちらが正しい間違っている、に注視すると永遠に解決しない。相手の認知が偏っているのかもしれないし、自分の認知が歪んでいるのかもしれない。それを当事者同士が話し合って、了解を得るのは不可能だ。であれば、現実問題どちらが正しいのかにはこだわらず、「受け取り側」の意見が正しい、と予め決めておいてしまうのだ。そうすれば悩む事はない。

 とはいえ、ここに書いた事は、私が勝手にやっている事で、どなたかにお勧めしているわけではない。こういう風に考えると私はラクなのです、というだけの話なので、逆にそのほうが苦しい、という方もおられるかもしれない。