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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

生きたい人生を生きられない私は不幸か。

<ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること。ひとを咎めることをせず、ただ、自分が思う誠実さのど真ん中を生きること。他人の濁りを指摘するのではなく、自分自身が透明になること。変化を求める【口先を変える】のではなく、自分自身が変化になる【行動を変える】こと> 

と、書いておられるブログを拝読した(ブログ記事から抜粋させて頂いた)。素晴しい生き方だなと思うし、100%共感できる。でも私には実践できない。子供をダシに使うのは卑怯かもしれないが、私の子供のような非定型発達の子供の親は、こういう生き方はできない。

 私の子供は、普通の子供が普通にできる事が、できない。小さい頃は本当に、ほとんど何もできなかったけれど、少しづつ克服してできるようになってきた。それでも今でもできない事は山のようにある。例えば、「臨機応変に行動する」事ができない。タイミングを見て動く、という事もできない。例えば、それは、車通りのそこそこ多い道に信号が無かったら渡れない、という事に近い。信号があれば、青で渡る。それはできる。でも信号が無いと、いつ渡っていいか分からない。車がゼロでいつでも渡っていいという状態なら渡れるが、車がそこそこ走っているとタイミングを見て渡る、というのができない。こういう「タイミングを見て行動する」という事が生活には沢山ある。年齢が上がれば上がるほど、いちいち指示しなくても自分で判断してやってくれ、と言われる状況が増える。大人はそのほうがラクだから。でも、ウチの子にはそれはできないので、私が関係各位に頭を下げて理解を求め協力をお願いせざるを得ない。

 「人に理解を求めない生き方」をしたいと私も思っているし、自分だけの人生ならそう生きている。間違いなく。でも子供の事は、人に理解を求め助けを求めていかなくてはならない。私の子供は周囲からの適切なフォローなくしては生きていけないからだ。

 私の子供はこういう子だから、小さい頃から苛めの対象になりやすかった。それが本格的なイジメに発展する前に、いち早く見つけ、苛めている本人や保護者や先生に告げ、止めてもらうように頼み続けてきた。これをもう、幼稚園の頃から10代の今現在まで、途切れなくやっている。私の子供は、本格的に苛められた事は一度もなく順調に学校に通えているが、それは私がイジメの芽を見つけ、もうそれ以上苛めてこないように働きかけてきたからに他ならない。私のこの行為は、親としては、というか、人として、とても辛い。苛めをやっている子は、それが悪い事だと知ってやっている。それを私も知っている。なのに、「あなたのやっている事は悪い事だ」と、咎めだてせねばならないのだ。相手はそれが悪い事だと百も承知だということを、私も百も承知なのに。そして、人を咎めだてする行為のしんどさ。それは、何ごともないように、私自身が誠実であればそれでいいのだ、と澄ましてスマートに生きていたいのに、できない辛さだ。

 私の子供は身体的発達も遅いので、生活面でも様々な「特別扱い」をお願いしなくてはならなかった。例えば、自律神経の一部が未発達のままなので、体温調節がうまくできない。冬場、学校の決まりとして体操服は半袖短パンと決まっていても、私の子供だけは長袖を着させてもらわねばならない。先生から見れば「過保護にしているから体が弱くなるのだ。薄着で鍛えれば体は変わるのに、子供に我慢させない努力させない親が、子供をどんどん弱くさせていくのだ」と思われているだろう事は百も承知だ。生まれつきそういう未完成の発達しかできない人間が存在する、という事を、他人が理解できないという事も分かっている。「親が、ウチの子はこういう子だ、と決め付けるのが一番よくない。子供はいつだって変わる可能性を持っているのに」と過去に散々責められてきた。「人は変わる可能性を持っている」事は、私も百も承知だ。それでも、私の子供に関して、彼が非定型発達であり、例えば自律神経の一部が発達遅滞を起こしており体温調節が普通にできない、という事実は、これは努力で変えられるものではないのだ。努力で変えられるものであるなら、どんなにいいか、と思うが、無理なのだ。そして、これが無理だ、という事を、他人に理解してもらう事もまた、ほぼ無理なのだ。

 誤解を招く言い方を承知で書くなら、私にとって子供は人生の重荷だ。「私の時間を奪う」とか「お金がかかる」とかいう意味ではない。子供を育てる事で、私は、私が「こうありたい」と思う自分ではいられない。「こう生きたい」と思うように生きられない。

 本当は、もっとタフな母親になりたかった。「子供は勝手に育っていくものよ」と鷹揚に構えた、堂々とした母親になりたかった。でもそんな事をしたら、体が弱く、精神的にもごくごく敏感な私の子供は、無事に育ってこれなかった。過保護に、過干渉に、手を出して助けてくるしかなかった。周囲の人に、配慮を求めてくるしかなかった。過保護の親になんて、絶対になりたくなかったし、人に配慮を求める人間になど、絶対になりたくなかったのに、ならざるを得なかった。

 拗ねているわけではないし、自己憐憫に浸っているわけでもない。被害者ぶっているわけでも、殉教者ぶっているわけでもない。事実を大袈裟に捉えている可能性はあるが、事実の本筋を歪めて捉えているわけではない。ただ、ただ、悲しいなと思ったのだ。私も、先に書いたブログの方が仰るように「ひとに理解を求めず、ひとを咎めず、自分自身が変化になる【行動を変える】」そんな風に生きたかった。

 本来の私は、人に何かを求めないタチだし、人を変える事など最初から考えない、変える事ができるのは自分だけ、と信じて生きている。でも、その生き方は、私の子育てでは曲げざるを得ない。子供の事で再三に渡って周囲に頭を下げ、特別な配慮を頼み、相手が面倒がっているのが分かっていても理解してもらわざるを得ないから説明をせざるを得ない。「自分側の説明」など、私が一番嫌ってきた事だ。くどくど自分側の理屈を人に聴かせる事など恥ずべき事だと忌み嫌い、絶対にやらないで生きてきた。でも、今はそれをやらざるを得ない。自分が「これはやるべきではない」と信じている事を、しなくてはならない人生を、今、私は生きている。

 勿論、それを選んだのは私自身だ。子供を放置する、という人生を選ぶ事も、理屈で言えば可能だ。一人でやれない、と分かっている子供に対して、「一人でやりなさい」と言って手をさしのべない、何一つ助けになってやらない、そういう生き方を選ぶ事も、理屈上は可能だ。それを選ばなかったのは、私自身だ。子供を助ける生き方を選んだのは私自身だ。

 全ては私が選んだ事だ。そう考える事だけが、私を救っている。私は全力で子供を育てると決めた。決めたのは私だ。子供が不幸にならないように、できるだけ幸せに生きられるように、自分を曲げてでも力を尽くす、と決めた。これが私の生きたい人生ではなくても、私に与えられた人生だと思っている。そして何よりも、子供に罪は一ミリもない。私の子供は私以上に、懸命に生きている。