書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

正義って何か

 正義について時々考える。悪を懲らしめるのが正義なのか、といえば、そんな単純なものではない気がする。少し前にどこだかの市役所の生活保護受給担当者全員が、ジャンパーに「不正受給者を探し出して罰するのが我々の使命だ。不正受給者はカスだ。我々は正義を貫く」みたいな内容を英訳しプリントして着ていたそうだ。(その課の全員が共感してそのジャンパーを着たわけではないのだろうが。着たくないが、トップに逆らうわけにもいかず嫌々着た人もいたのでは)。いずれにしても、そのジャンパーの主張は、正義ではなく弱い者いじめな気がする。

 でもじゃあ一方で、自分さえよければいいとばかりに自己中心的に行動する人を、誰も注意しなければ、必ずその人のせいで迷惑を被る人が出てくるから、それはそれでどうなのか、と思う。その人より弱い立場の人は、その人に注意できないんだから、その人より強い立場の人が注意してくれないと困る。これをもっていして、「正義面して」みたいに「意地悪」みたいに言われると、誰も誰かを注意できなくなってしまい、結局のところ、「やったもん勝ち」「強いもん勝ち」みたいになっていく。やっぱり誰かが「正義面して」注意してくれないと困る。

 正義って何なのか、とずーっと考えていて、きっと「正義」って、「良心」の事なのではないかと思うようになった。

 「悪を暴いて行動を改善させたり罰を与えたりする行為」がそのままストレートに「正義」なのではなく、その行為を行う前提として「良心」がある事が必要なのではないかと思う。逆に言えば、「良心があるからこそ、悪を暴こう、という意思が生まれる」この過程が絶対的に必要だという事。「正義」は、良心から発信する行為である事が、大前提だという事。

 「良心」発信の行為ではなく、「自己価値を高めたい」故の行為だったり、「鬱憤晴らし」故の行為だったり、「いちゃもんつけたい」故の行為だった場合、表面的には「悪を暴きこらしめる」形だったとしても、それは「正義」ではないと思う。

 自分のまわりを見ても、自分自身の行動を見ても、誰かに注意したり間違いを正したりする時、本当にそこに良心があるのかどうか、見極めないといけないと思う。と、ここまで書いて、では「良心」とは何なのか?と考えてしまった。キリがない。