書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

謝罪の気持ち

 私の夫は、謝らない人だ。仕事上では謝る事もあるのかもしれないが、少なくとも私に対しては絶対に謝らない。

 よく、男性は、「謝らない、のではなく、謝れないのだ」という話を聞く。「ごめん」という言葉は、相手に伝えているようでいて、実は自分にも言っている、自分を許せた時にしか「ごめん」という言葉は言えないものである、というのだ。「自分を許す」というのはどういう事かというと、「自分は間違った」という事実を認めても、自分のプライドは傷つかない、それだけ確固とした自尊心を持っていて初めて、人は誰かに謝る事ができる、逆に自尊心が低いと、謝る事でプライドが傷つくのに耐えられないから謝れない。また、罪悪感が強すぎて逆に謝れない場合もあると聞いたりもする。

 夫が謝らないのは、偉そうにしていても実は自尊心が低いから(もしくは罪悪感が強いから)、そういう葛藤が心の中で起きているからで、謝らないのではなく謝れないのかもしれない。また、ただ単に、「謝りたくない」私に頭を下げたくない、という我の強さ故に謝らないだけなのかもしれない。どちらなのか、私には分からない。そして正直、どちらでもいい、と思っている。

 これは以前から思っている事なのだが、「しない」のはダメだが、「できない」のはしょうがない、だってできないのだから多目に見て許してあげないといけない、というような考え方に、私は違和感を持っている。「できない」のなら許してあげる、というのは、微妙に相手に失礼な気がするからだ。そもそも相手の心の中を勝手に忖度し、「あなたは自尊心が低いし罪悪感が強いから謝れないのね、可哀想ね」と相手を見下す事で、相手を許そうとする心理を、私はあまり好まない。私は基本的に、勝手に相手の心の中を忖度する行為を、由とは思わない。それはとても失礼だと感じるのだ。自分がされたらとても不愉快だから。

また、一方で、「しない」のも「できない」のも、結局同じ事なのではないかと思うのだ。同じ事、というのは、自分サイドから見て同じ事、という意味だ。つまり、謝らないのも謝れないのも、相手側の事情であって、どっちにしても私は謝ってもらえないわけだ。謝ってもらえない、という面でいえば、どちらの事情であろうと私にとっては同じ事だ。

 本当に冷静に正直に自分の気持ちを探ってみれば、「謝らない」のは許せないが「謝れない」のなら許せる、のかと言えばそんな事はない。できないのなら仕方ない、許してあげないといけない、と無理に自分に言い聞かせているだけで、正味の気持ちで言えば、どっちにしろ許せていない。

 長年夫と付き合ってきて私が考えたのは、「どうやったら夫に謝ってもらえるのか」ではなく、「どうして私は謝って欲しいのか」だ。何故私は、夫に謝ってもらうと嬉しいのか。そして意外なことに、私は夫に謝ってもらったとしても別に嬉しくはない、という事実に気づいた。謝ってもらえれば一瞬溜飲が下がるが、それだけだ。夫に謝らせて私が幸せを感じるのか、といえば、そんな事はない。私の人生が向上するわけでもない。であれば、「謝らせる」事にこだわる必要はあるのか、という疑問が湧いてきた。別に謝ってもらわなくても別にいいんじゃないのか、と。

 確かに、夫が完全に悪い時にもしらっと逃げられると、一瞬腹が立つ。でも、よくよく考えたら、腹が立つのは一瞬なのだ。30分もすれば忘れる。夫に謝ってもらったところで、私にとってのメリットと言えば一瞬溜飲が下がるだけで、それが私の人生に何の影響を与えるでもない。夫が何をどう言おうが言うまいが、私の人生は変わらない。そんな事にこだわる必要はないし、そもそも「一瞬溜飲が下がる」だけの些事にこだわる自分の小ささが、とても面倒臭く感じた。謝罪を必要としない生き方の清々しさに気付いた。そういう風に考えるようになってから、謝らない夫と暮らしていても、不都合は感じなくなった。

 相手には相手の事情がある。謝らないのか、謝れないのか、どちらにしてもそれは相手の事情だ。私は性格的に、相手の事情を忖度する事が好きではない。自分がされたらとても不愉快なので、相手にもしたくないのだ。相手の心の内を忖度するのではなく、自分の心の中を探る事のほうが、私の性には合っている。

 世の中には、さらっと謝れる男性もいる。以前付き合っていた人もそうだった。どんな小さい事にでも、何のつっかかりもなく「あ、悪い」「あ、ごめん」とさらさら言える人だった。でも彼は、本当に謝らねばならない酷い事を私にした時に、何も言わずに消えてしまった。結局のところ、謝りの言葉を発する発しない、という事は表面上の問題だけであって、謝罪の気持ちを持っているいないとは、関係ないのかもしれない。

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