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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

ほどよさの実現

人生の半分は散歩をしているような気がする。今年もおそらく散歩三昧で過ごすだろう。私なりの「ほどよい散歩」というのがあって、それは「目的があるようでない散歩」だ。全く目的がないと楽しくないが、かっちり目的があるのもしんどい。あるようでない、の塩梅がちょうどいい。

 例えば、私が散歩の目的地によく選ぶのが「美術館」だ。とりあえず目当ての美術館を目指して歩く。場合によっては電車に乗ったりもする。そして到着したら、展示内容を確認し、気が向けば観る。食指が動かない場合は、外から美術館の建物を眺めるだけにする。カフェがあれば入るし、なければ美術館の前のベンチや石の段々などに座って眺める。

 美術館の外観というのは、鑑賞するに足るものが多い。和洋折衷の具合に趣を感じる。教会のような窓や柱や塔があり、その上に瓦屋根がのっていて、城のような天守閣があったりする。そして、何故か必ず塔のてっぺんには一羽の鳥が佇んでいる。白でもなく黒でもなく、大きくもなく小さくもなく。あまりにも高く遠い位置にいるので、よく分からないなりに、おそらく鳩であろうと見当をつける。その鳩は、私が眺めている間中、まるで彫刻のようにじっと動かない。けれど、ふっと私が目を離したその一瞬の隙に、さっと羽を広げて空高く飛んで行ってしまう。 鳥が飛んだのを機に、私も腰を上げ、帰路につくのだ。

 家に帰ると、ちょうどいい具合に疲労していて、心地よく気分転換にもなっている。これで下手にかっちりした目的があると、例えば、あの美術館のあの展示を観て来よう、等という目的があると、「混んでたな」とか「今イチだったな」とか批評してしまって疲れる。たまたま行って、たまたま何か展示にぶつかって観た場合は、たまたまなのでそこまで気持ちが入らない分気楽なのだ。いいも悪いも私の心持ひとつなので、気楽にいれば悪い心持ちにはなりにくい。

 目的があるようでない心持ちでいる事で、「ほどよさ」が実現できるように私は思っている。これは「逃げ」の思考かもしれないが、これぐらい極端に割り切らないと、ほどよく生きるスタンスが、私には実現できないのだ。何かにつけて妙に必死になってしまったり、片意地はってしまったりする。今年もまあ、一日一日こつこつ歩んでいくわけだが、ほどよい散歩のような気楽さを、保っていられたらいいなあと思ってる。