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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

窮屈で地味なミニマム思考時代が合っている

日々の思い

最近、きちんとした仕事をされる方が増えたように思う。最近、と書いているが、いつの頃と比べているのかというと、バブルの頃と比べている。バブルの頃は「みんないい加減だなあ」と思う事が多かった。最近は、「みんな、本当にきっちりされているな」と感じる。

 今日は、子供の医療控除の件で、区役所に電話した。電話に出てくれた担当者は、最初、医療控除についての説明を、おそらくルーティンになっているのだろうけれども、立て板に水のように話してくれた。しかしながら、私が聞きたかったのは、一般的な事ではなく、特別なレアケースについてなのだった。それを私が説明したところ、電話口の担当者は、黙ってしまった。

 以前なら、その後、区役所内電話たらいまわしの刑にあっていたところだが、今日の担当者は、「調べまして折り返しお電話します」と言ってくれ、確かに10分後に折り返し電話をくれた。私が電話でぐずぐずと説明したレアケースの内容も、とりこぼしなく確実に理解してくれていて、回答も的確だった。役所で把握できるのはここまでで、後は個々の医療機関に問い合わせてください、という事だったので、次にかかりつけの病院に電話した。

 またしても、問い合わせたいレアケースの説明をする。どう説明したらいいか難しく、漠然とした言い方しかできなかったのだが、病院の担当者はすぐに私の疑問を理解してくれた。面倒くさそうにもされず、丁寧に話を聞いてくれ、隅々まで行き渡るかっちりした回答をくれた。相当、この仕事に熟達している人なのだと思った。以前なら、ちょっと面倒な質問をしたら、すごく迷惑がられたし、迷惑がられるのを押して更に食い下がって聞いたら、いい加減な返事を返されてお茶を濁されて終わりだったところだ。

 これは民営化の影響かもしれないが、国鉄時代のJRも酷かった。ホームで通りすがりの駅員さんに「〇〇時発の〇〇行きの電車はこのホームで良いですか」と聞くと、立ち止まりもせずに無視される事もあれば、そんな事も知らないのかと吐いて捨てるように「ここじゃない」と言われる事もあった。じゃあ、何番線のホームに行けばいいのか、教えてくれる駅員さんなどまあいない。当時はもう、駅員さんに何かを尋ねるのが怖かった。国鉄だけじゃなく、他の私鉄も似たようなものだったと思う。今は、ちょっと尋ねても、誰に尋ねても、とても丁寧に教えてくれるのでびっくりする。

 最近は、本当にどこに何を問い合わせてもきちんとした回答がもらえるし、どこに何を頼んでも、隅々まで気を配った対応をしてくれる。みんながここまでキッチリしてくれると、生きていく上で、ストレスが本当に軽減する。優しい、サービスがいい、というより、きちんと筋を通してくれるから心地いい。

 例を挙げてばかりで恐縮だが、先日、私の不注意でマンションの警報を鳴らしてしまった。警備会社の人が飛んで来てくれたのだが、実質的な被害は何もないので、お詫びしてお帰り頂いたが、後日、管理会社から警備を呼んでしまった費用を、しっかり請求された。最近マンションの管理会社を変えたのだが、以前の管理会社からは、こういう請求は来なかった。私のミスなのに、マンション全体の管理費から払ってくれていたのだと思う。今の会社のように、私に請求してくれるほうが、筋が通っていて気持ちがいい。

 私はわりと都会に住んでいるのだが、以前はよく見られた「路駐」が、今は全く無いのも暮らしやすい。私自身が車に乗るので、街中で路駐できないのは不便ではあるのだが、以前のようにマンション前の道にずらっと路駐の車が並び、アイドリングしながら昼寝されていた時代よりは、今のほうがずっとマシだ。あの頃の排気ガスの匂いとエンジン音は本当に苦痛だった。警察に通報しても(このへん私は若干のクレーマー体質です)「そのあたりは便利のいい場所だから、路駐車が多いのは当たり前」と言われ取締りにも来てくれなかった。それが今ではしょっちゅう緑のおじさん達(路駐取締り員)が自転車で走り回り、3分でも路駐していれば即罰金のシールを貼っていく。街に路駐の車は消えた。

 バブルの時代は華やかで自由で楽しかった、と振り返る方が多いのだが、私はあの時代は生きづらいと感じていた。華やかさに乗りきれなかったし、贅沢を楽しいとも思えなかった。自由自由と言うけれど、その自由って、他人の迷惑を無視して自己中を通せる自由じゃないのか、と思っていた。今のこの、窮屈で地味で節制必須のミニマム思考時代が、私には合っていて暮らしやすい。