書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

時間を取り合う事

家事育児以外「何もしない」事について、ずっと書いてきている。今日もまた。

子供が小さかった時、特に幼稚園に入るまでは、私の時間と育児の時間を切り離す事は不可能だった。というか、24時間育児の時間だったとも言える。

 私の子供は、常に私の注意が、自分に向いていないと怒る子だった。今でもそういう傾向はあるが、幼児期は特にひどかったと記憶している。子供と一緒に遊んでいる時だけでなく、子供一人が何かをしている時も、必ず私が見ている事を要求した。私の注意が自分から逸れると泣き叫んで怒った。一緒に外を歩いていて、たまたま知人に会い少し会話をしようとすると、泣いて怒り私の手を引っ張ってその知人から離す。私が他人と話す事で、私の注意が自分からその他人へ移る事が我慢できなかったのだと思う。それでいて、やっている事に私が口出しをすると、それはそれで怒る。「放っておいてくれ」と言わんばかりに。自分のやる事に口出しするな、でもひたすら注目し続けろ、というわけだ。なかなか難しい子供だったのだ。

 幼稚園に入ると、幼稚園に行っている間が、私の時間になった。小学校に入ると、学校に行っている間が私の時間になった。育児の時間と私の時間をクッキリと切り離す事ができるようになって、少しだけ気持ちに余裕ができた。

 さすがに中学以降は、常に私の注意を引き続けたがる、という事はなくなった。学校に行っている時以外、家にいる時も、私は育児から離れ、自分の時間を確保する事が可能になった。

 といっても、家事の合間に子供と話したり、なんだかんだ子供関係の面倒事を片づけたり、子供に勉強を教えたりする事はやっていて、それが育児の時間という風に把握している。だから、それ以外が、私自身の時間、という風に考えている。私自身の時間、何もしない時間だ。この「何もしない」時間に、私は私自身を癒し、心身の調子を調えている。

 しかしながら、この時間に、いつもではないが今でもたまに、子供が「母親の注意を自分に引き付け続けたい」モードに入る時がある。矢継ぎ早に面倒な質問をし続け、間髪入れず的確な回答を返す事を要求される事もあるし、「どうしてそんな事を話題にするのか」分からない事、何が面白いのか見当もつかない事を延々話しかけてこられ、的確な相槌を打ち続ける事を要求されたりする。これが結構しんどい。でも、なんとなく適当に聞き流す、という事が許されず、しんどくても子供に集中し続けなくてはならない。そういう時に私の注意が子供から逸れると、子供はなんというのだろうか、とても傷ついた様子を見せるからだ。

 子供が要望する限り、子供に集中し続ける、という事は、親にとってはしんどい事だと思う。幼児期は「今だけだから」と耐える事ができたが、中学生ともなると、「一体いつまで続くのだろう?」と途方にくれてしまう。げんなりしながらも、それでも私は、子供が要望する限り、子供に集中し続ける事を止めないつもりではいる。

 何故なら、親から十分に関心を持ってもらい、自分の話を丁寧に聞いてもらい、自分の質問に丁寧に答えてもらう事が、子供の心を穏やかに満たしていく事だと思うからだ。それを子供が私に要望してくる、それもかなり強烈に要望してくる、という事は、それだけ子供にとって、私に関心を持って相手をしてもらう事が、必要な事なのだと思うのだ。

 子供によっては、生まれつき自立心が旺盛で、さっさと親離れしていく子や、とても心の強い子がいるだろうし、そういう子を必要以上にかまいたてるのはよくないと思うのだが、ウチの子は、そうではない。依存心の強いタイプだ。

 依存心が強いからこそスパルタに、という意見もあるだろうが、私は逆だと思っている。依存心が強い子は、その子が満足するまで、依存させてやる事が必要だと。存分に依存し、欲しいだけ十分親の関心を得る経験を積み重ねれば、ある日、「もうお腹一杯」と言う日が来ると思っている。ウチの子の場合だけかもしれないが、ずっとそうやって育てて来て、うまくいっている気がする。

小さい頃は食べ物の好き嫌いが激しかったが、食べれるものだけ食べればいい、という方針で、嫌いなものを無理に食べさせるような事はしなかったが、不思議と今では好き嫌いなく何でも食べるようになった。小さい頃は一人で寝るのを嫌がり、一人では絶対に寝なかったので、必ず私が一緒に寝てあげていたら、小学校に入る頃、ある日「今日から一人で寝る」と言い出し、その日を境に一人で寝るようになった。お風呂も、登下校も、最初は「絶対にお母さんと一緒に」で、私は一度も「一人でやりなさい」と言う事なくその要望に応え続けていたら、ある日を境に「今日から一人でやる」と自発的に本人が言いだす日が、必ず来た。

だから「子供に関心を持って、子供の話を集中して聞いてやる」という子供の私への要望も、嫌がらずに応え続けていたら、ある日を境に「もういい」となる日が、きっとくると思っている。

 その日までは、私自身の時間を、育児の時間に侵食される事しばし、だ。私自身の時間、つまり「何もしない」時間は、しばしば育児に侵食されるが上に、今の私にとっては、とても貴重なのだ。いずれ、子供から必要とされなくなったら、私にはたっぷりの「何もしない」時間が与えられる。そうなったら、この時間が、きっとあまり貴重だとは思えなくなる気がする。限りがあるからこそ大切なのであって、限りがなくなったらきっと、「何もしない」事に、私は、退屈を感じ始めるのではないか。その時期には私の心も今とは変わり、多少成長し、そして老い、モノの感じ方も変わっているだろうから、まあ、なんとも言えないが。

 なので、ここに書いているような事も、今の私が「多分、こういう事なんだろう」と思っているだけのことなので、私本人ですら数年後、数十年後には違う考えになっているだろうし、ましてや他の方からしたら正解でも何でもないのだろうと思う。それでも、今の私としては、こんな風に思っている。

 誰かと「何か」を取り合うという事は、人生でしばしば起こるし、その時その「何か」はとても貴重に感じる。大事なのは、奪い合いをしている二人の立場の違いを認識する事だと思う。たいてい、その二人の一方が立場が強く、一方が弱い。その時、強い方が自分のエゴを満たす為にその「何か」を相手に渡さなかった時、その時一瞬は気分が良くなるだろうけれど、いずれ双方にとって不幸な結果になっていくと思うのだ。逆に、立場の強い方がその「何か」を快く弱い相手に差し出したら、その一瞬は苦しい気分になるだろうけれど、結果的に良い方向に人生が動いていくのだろう。

 大事なのは、立場の強い者から弱い者へ、快く譲る事だと思う。水が高い方から低い方へ流れるように、それが自然に行われる事が大事だと思う。しかし実際には、逆である場合が多い。強い者が弱い者から奪う、奪わないまでも渡さない。それが様々な不幸を生みだす原因だと私は感じている。

 例えば親子の場合、親のほうが明らかに立場が強いわけだから、「私の時間」を子供と取り合う場合、快く子供に差し出したいと思っている。今までもずっとそうしてきて、子供は情緒的に落ち着いた子になっているように思う(親のひいき目かもしれないが)。赤ちゃんの頃の事を考えると、とても神経質で過敏で育てにくい子供だったので、今、おおらかに育ってくれた事は、私の時間を惜しげなく子供に譲ってきたせいではないかと勝手に思っている。