書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

「ちょっと待って」を言わない

 私は、「ちょっと待って」を言わない事にしている。何かをしていて、その途中に誰かから呼ばれたり用事を頼まれたりしたら、今やっている事をどんなに中途半端でも一旦止めて、用事をしに中座する。呼んで来た相手に「ちょっと待って。これ終わったら行くから」と言って、自分のやっている事を優先する、という事はしない。

 この習慣は、子供が小さい頃にできたものだ。子供はしょっちゅう母親を呼びつけるものだが、どんな時でも、子供に呼ばれたらすぐに行く事にしていた。洗い物の最中でも、洗濯干しの最中でも、やっている事を一旦止めて、子供の側に行く。「ちょっと待って」という言葉を、子供に言った事がない。

 その様子を見ている人からは「そんなに何でもかんでも呼ばれたらすぐに行っていたら、子供が甘やかされて、待てない人間に育ってしまうよ、待たせる事も大事だよ」と、わりとよく言われた。私は別に言い返しはしなかったけれど、「そんな事はない」と思っていた。

 何故ならば、私自身が、母親から、いつも待たされる子供だったからだ。末っ子だったせいかもしれないが、母親を呼んで、すぐに来てもらった記憶が全くない。母親を呼んでも「ちょっと待って」と必ず言われて待たされた。待たされているうちに待ち疲れてしまって、もう母親の事は諦めて、自分でめちゃくちゃやって終わる、みたいな事が多かった。それで私はどういう人間に育ったかというと、極端に「待てない」人間になってしまった。ものすごくせっかちで、待つ事が何よりも苦手な人間になってしまった。

 待てない性格の自分が嫌なので、子供は、もっとおおらかな鷹揚な性格になって欲しくて、私は、子供を待たせない事を心掛けて育ててみたのだ。

 で、育ちあがった現在の我が子はどうかというと、予想通り、とてものんびりした、おおらかな性格になった。「人を待つ」事が全く苦にならない、私からすれば、うらやましいようなおっとりした性格に育った。

 これはきっと、こういう事だと思う。

 体と同じで、心にも、免疫抗体というものが存在するのだと。同じ刺激を沢山受け続けると、私達の心には、その刺激に対する「抗体」ができてしまうのだ。特に、負の刺激に対して私達は、自分の心を守る為に、強力な「抗体」を作り上げるのだと思う。

 「待たされる」という行為は、人の心にとって、負の刺激なのだと思う。待つ事が大好き、という人は多分いないだろうから。待つ事は、その個体の持つ貴重で有限な時間を無駄に浪費する事だから、自然な心の反応としては、避けたいのが当たり前で、だから「待たされる事を我慢する」状況は、心にとっては、負の刺激になるのだと思う。

 この「待たされる」という負の刺激を、繰り返し受け続けた心は、この刺激に対する「抗体」を作る。適度な量の刺激であれば、適度に抗体ができて終わり、なわけだが、刺激の量が多すぎと、抗体反応も過剰にできてしまのだと思う。その結果、少しの刺激に対しても、過剰に反応する心になってしまう。花粉症のように。

 だから、特に子供に対して、慣らす為にとか、鍛える為にとか言って、過剰に負の刺激を与える昔ながらの慣習には、疑問を覚える。むしろ逆効果ではないか、と思っている。負の刺激については、適度に与えるのが一番いいのだろうが、この「適度」というのが現実的にはなかなか難しい。のであれば、むしろ負の刺激は与えない、というやり方が、一番ではないかと思っているのだ。