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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

子供の家出③

日々の思い

  前回の続きで、「家出をしたお子さんを探していない」という方の話について、私が胸をざわつかせた理由の続きを書きたいと思う。

 よく、子育てで大事なのは、「他の子と違う所があっても、それがその子の個性なのだ、と認めてやり、否定したり矯正したりしない」事だと言われる。それは正解だと私も思う。でも、それだけ守っていたら、いいとは私は思わない。「我が子の個性を認める」以前に、もっと大事な事があると思う。それは、「子供が苦しんでいる事を認める」事だし、「子供が何に苦しんでいるのか知る」事だし、「その苦しみから子供を救い出す」事だ。

 子供を、その苦しみの中に放置し助けの手をさしのべもせず、「何もかもあの子の個性だから」「私は子供を信じているから」「子供は親の思い通りにはならないし、してはいけない」「子供をコントロールしてはいけない」「子供の人生は、子供自身が選ぶもの」と素知らぬ顏をする行為を、私は良いとは思わない。そういう「まっとうな綺麗ごと」が言えるのは、子供の人生から、苦しみを取り除いてやった後の話だと思う。 子供を、苦しみの渦中に放置したまま、「子供の人生は、子供自身のもの。親がどうこう手出しはできない」とうそぶくのは、違うと思う。

 ましてや、相手が発達障害児であれば尚更だ。発達障害児は、自分の力だけで、自分の苦しみを排除する事ができないからだ。だから障害なのだ。

普通のレベルの音を騒音に感じる子供なら、静かな環境を与えてやるのが何よりも必要な事だし、コミュニケーション能力を持たない子供なら外国語を教えるように対応していく事(このぐらい分かるでしょう、ではなく、知らなくて当然という前提でごくごく単純なコミュニケーションから始め、それを体系的に合理的に進めていく)事が必要だ。障害故の鈍さで苛められているのなら、どんな手段を使ってでも苛めを根絶するか、苛められている環境から別の環境に子供を移す事が必要だ。その一つひとつが、おそらく他人から見れば「過保護」に見えるだろう行為、にも関わらず親にとってとてつもなく面倒くさい行為、その上、それを成し遂げられた所で親自身は黒子でしかなく誰かから誉められる事等一切ない。それが子供にとって、何よりもまず必要な事だと思う。我が子にとって何が苦しみとなっているのかを知り、その苦しみから我が子を救う事が、何よりもまず、親がやるべき事だと思う。苦しみを省いてもらう事で初めて、子供は何かを学ぶスタート地点に立てるのだから。子供に何かを教えるのは、それからだ。苦しんでいる渦中の子供に、何を教えても、それがどんなに正しい事であっても、子供が学べるはずはない。学べない子供が悪いのではない。子供の苦しみを見ない親が悪いと私は思う。

 冒頭に書いたその方は、「私は今後、子供をコントロールするのは止めようと思った。子供を信じ、子供の人生は子供に任せようと思った。たとえこの先、子供が犯罪者になろうが、自ら命を断とうが、それは子供の生き方で、私にはどうする事もできないのだから」と語っている。お子さんは、20才を超えているとはいえ、実質的な知的発達は中学生レベルなのにも関わらず。

 中学生の子供に、自分の人生の責任を自分で取れ、と言ってよいものなのか。中学生の子供が、この厳しい社会で、誰の助けも得ずに生き抜いていく事ができるのだろうか。

 鈴木大介さんという作家さんが、家出した少年少女の人生について、詳しいルポを書いている。「家のない少年たち」など、著作は多い。家出した子供達(特に、育てにくい発達障害児は養育時に辛い状況に置かれがちで、家出する率が高い)の現状と末路の悲惨さを知る事ができる。

 しかし思う。家出したのは私の子供ではないわけだし、私の子育てではないわけだ。赤の他人のお話なのだ。なのに、どうしてこんなに気になって仕方ないのか。わざわざブログに書かずにはいられないほど、気になるのはどうしてか。

前々回の冒頭に書いた通り、人は無意識に自分の問題から目をそらす為に、他人の問題に注目しがちだ。つまり、私は今、何かの問題を抱えているという事なのかもしれない。悲しい事に、それが何なのか、私には分からないのだ。健康面でも特に問題はないし、金銭的にも困っていない。子育ても今のところ順調だし、夫婦仲も悪くない。私が無意識に抱えている問題って、何なのだろうか。いつか気づけるだろうか。