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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

子供の家出②

前回の続きで、「家出をしたお子さんを探していない」という方の話について、私が胸をざわつかせた理由を書きたいと思う。

 お子さんを育てる事は、その方にとって「闘いであり苦行」だった、とその方は言う。お子さんは発達障害だから。理解できない、分かってあげられないし、その方がタブー視している事を、お子さんは次々とやってくれる。それでもその方はくじけずに、お子さんに教え続けたけれど、馬の耳に念仏で、お子さんを追い詰めるだけだった。その方は、自分がしている事は、ただのコントロールで、逆に子供を不幸にしていると考えたそうだ。

 そして、子供の人生は子供に任せる事にしたそうだ。教え導く事も手を出してやる事も止めたのだそう。それをその方は、「子供を私の手から解放してあげた」という表現で語っている。その後、お子さんは家出したそうだ。その方は、だから、子供を探す事を止めたのだとか。

 一見、とても筋が通っているように聞こえる。でも、何かが違う、と私は感じて胸がざわつく。

 発達障害児の子育てが「闘いであり苦行」である事は、それは間違いない。そして、その理由が、発達障害児の事を、理解できないし分かってあげられないからだ、という事も正しいと思う。私が疑問を感じるのは、その後だ。

 理解できないからこそ、理解しようと努力する必要があるのではないか。学ぶ必要があるのではないか。発達障害については、沢山の本が出ているし、親の勉強会も沢山ある。病院でもフォローしてくれる。親が、発達障害児について理解する努力をサポートしてくれる場所や機会は沢山ある。今の時代、親が、発達障害の我が子について、先天的には理解できなくても、後天的に学ぶ努力をする事で、理解してやる事は、十分に可能だ。「子供が発達障害だから、子供の心を理解してあげられない」と、まるで不可抗力のように言う人に、私は疑問を感じる。そういう人は、子供を理解する為の勉強を怠っている、努力を放棄している、と私は思う。

 そもそも論だが、「子育て」の要素の中には、「教える」事だけでなく、「支える」「配慮する」「助ける」という要素も当然必要だ。ただ一方的に「教える」だけで、子供が育ってくれたら世話はない。実際にはまず子供を観察し、見守り、子供がどんな事に困っているのか、何に対して苦しんでいるのか、を知らなければ始まらない。その上で、子供が困っている事を取り除き、苦しんでいる事を手助けして解決してやり、子供の世界から余計な苦悩を取り省いてやる事が、まずは親がやるべき事だと私は思う。子供に何かを教えるのは、その後だ。40度の熱が出ている子供に、社会のルールを教えたところで、理解できるわけも身につくわけもないのだ。発達障害児が、適切な配慮やフォローや理解を得られずに生きている状態というのは、普通の子供が40度の熱を出しているのに何の手当も受けていないのと同じ状態だ。それほど、発達障害児の五感というのは、この世界に対して敏感過ぎ、不適切な表現かもしれないが、「適していない」のだ。どうしたって適切な理解とフォローを必要としているのだ。

 そういう事は、発達障害について少しでも学べば、すぐに分かる事なのに、その人は、我が子が発達障害児にも関わらず、学ぶ事をしなかったのだと思う。

 そう、私が、その人について胸をざわつかせる理由は、「何故、発達障害について学ばなかったのか」とう疑問が拭えないからだ。

 我が子が発達障害児なのに、発達障害について学ぼうとしない親が、とても多いように私は感じるし、それによって苦しむのは、親よりも子供のほうだ、とも感じる。親は、正しさを言い募れば正義の側に立てるし、苦しさを言い募れば被害者の側に立てる。でも実際は、違う。実際は、学ぶべき時に学ぶ事から逃げた、怠慢な人だと私は思う。言葉はきついかもしれないが、私はそういう親を責めたいわけではない。ただ、そういう親の元に生まれた子供の不幸を思うと、胸が苦しくなるのだ。どれだけ時間が過ぎても、忘れる事ができないのだ。もう少し次回に続きを書きたいと思う。

   

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