書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

相手を否定してまで自己主張はしない

他人の意見を否定してでも自分の意見を言う事について、もう少し考えてみる。

といっても、この事ばかりずっと考え続けているわけではないんだけども。今日は何書こうかな、と思った時に、アレの続きを書こうと自然に思うので、書き続けているという状況。

 で、自分の意見が、他人の意見を否定するものである場合、言わないという選択を私はするわけなんだけども、「言ったほうがいい」と仰る人もいます。わりとよくいる。「自分の意見を押し殺す癖がつくと、そのうち、自分の気持ちが何なのか分からなくなるよ」と。

 私は、「あえて言わない」という事と、「自分の意見を押し殺す」という事は、別物だと思っている。だから、「あえて言わない」生き方を選択したからといって、「自分の気持ちが分からなくなる」事はまずないと感覚として思う。

 私の思いとか考えとかいうのは、ちゃんとあって、それは、その場では言わないだけの事だから。言える場面があれば言うし、言える人には言う。メールやブログや日記に書いたりもする。だから、私は、その場で「言わない」という選択をしたからといって、「自分の意見を押し殺した」とは思っていない。

 私が「言わない」選択をする事によって、相手の意見を否定しなかっただけだと思っている。

 相手の意見を否定しないという事と、自分の意見を押し殺す事は、全く別モノだと思っている。

 私は、きちんと自分の意見を持っているけれど、その場でそれを相手に押し付けないという選択をしただけのことで、私の意見はそのまま持ち続けている。それだけの事だ。

 相手を否定する意見でも言ったほうがいい、と仰る人のその理由はもう一つあって、「人間はそれぞれ一人ひとり異なっているのだから、意見が異なるのは当たり前。それを言い合う事で意見のすり合わせができる」から、と。

 意見のすり合わせ、ねえ。。

 そういう綺麗事を言う人に限って、絶対に自分が正しいというスタンスを曲げないし、自分の意見が否定されたら逆ギレしたりするんだよねえ。

 話し合いで、真逆の意見の持ち主同志が、お互いの意見をくみ取りあって、うまいぐあいに落としどころを見つけ、円満に会話を終えられるなんて事は、現実問題としてあり得ない。そういうの、見た事がない。

 私は、人間が、誰かに指摘されて自分の過ちを認める事って、無理だと思っている。自分の過ちを認めるのは、その過ちのせいで、自分自身が心底痛い目に遭った時だけだと思っている。誰かと話したぐらいで、自分の意見ほうが間違っているなんて事、認める人はいないと思う。

 もし相手の意見を採用し自分の意見を引っ込めた人がいたら、それは、もめるのが嫌で、表面的に相手に花を持たせただけの事。相手に譲ってやっただけの事。そういう時、譲ってもらえたほうは「ほらみろ、自分が正しかった」とご満悦になる。一方で、譲ってあげたほうは、内心苦々しい思いを抱える事になる。内心では自分のほうが正しいと思っているわけだから。体に悪いことおびただしい。

 翻って、相手と意見が食い違う時は最初から自分の意見を言わない、という選択をすれば、そこまで苦々しい思いをせずにすむ。相手には相手の意見があり、自分には自分の意見がある。それだけの事だ、と割り切る事ができる。相手の意見は相手の中では正解であり、自分の意見は自分の中で正解である。たとえ真逆の意見でさえ、双方の意見がそれぞれ正解である、という世界観で暮らせば、心の中は平穏だ。

目の前の相手を否定してまで自己主張はしない、という生き方は、穏やかに生きていく為の、ごくごくシンプルな方法だと私は思っている。