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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

ある考え

私は、何かを経験した時、その経験をもとに「ある考え」に到達するという事をよくやる。自分の経験から、これはきっとこういう事なのだろう、という自分の考えを作り上げる作業を、よくする。その「自分の考え」というのは、今まで誰も言っていない事でないと意味がない、とも思っている。誰かが先に考え発表した事であれば、たまたま私もその同じ考えに至ったとしても、わざわざ私が改めて言う必要はない、むしろ言ってはいけない、と思うところがある。私は、こと「考え」というものに対しては、極端にオリジナリティーを追及したいと思うところがある。

だからこそ、自分の考えを語る事には、基本的に「難点」しかないように思っている。

まず、一般的に人は、誰かの「考え」を聞いた時に、「それ、どこかで聞いた事ある」と思っても、根本的にその「考え」に違和感を覚えなければ、批判はしない。「他人の考えた事を、さも自分が考えた事のように語っているな」と思ったとしても、そもそもその「考え」自体に批判意見がなければ、「それ誰かが前に言ってたよ」という批判はしない。人は一般的に、「考え」というものに対して、さしてオリジナリティーを重視はしていないように私は思う。

人が誰かを批判する時というのは、その「考え」自体に、違和感を覚えた時が多いと思う。つまり、その「考え」に自分が同意できない時、その「考え」が正しい事になってしまうと自分自身の立ち位置が脅かされる時、人はその「考え」を批判するのだと思う。

つまり、その「考え」が批判される時というのは、その「考え」が相手の立ち位置を脅かすものである時なのだと私は思っている。

人は、その「考え」が二番煎じだからといって批判する事はないが、その「考え」が自分と相いれない時、批判する。

人というのは、様々な立場で生きていて、全く同じ考えを持っている人はいないから、すべての「考え」が正解で構わないと私は思っている。でも、そうは思わない人のほうが多いように感じてもいる。自分の意見が正しいと証明する為には、自分の意見の真逆の意見は否定しないといけない、と考える人は多い。

となると、どんな「考え」を言ったところで、必ず、その「考え」と相反する「考え」を持つ人は存在し、必ず批判される事になる。

すでにその「考え」が手垢のついた一般論になっていれば別だが、その「考え」が正真正銘のオリジナルであればあるほど、叩かれる可能性は高まる。

そういう事にだんだんと気づいてきて、自分の考えを言う事は、わざわざ批判されに行くようなものだな、と思うようになった。

なので、批判される可能性のある場所では、私は自分の意見はまず出さない。貝のように押し黙る、というわけではないが、一般論に終始するように心掛けている。オリジナリティ‐のある意見など、口にしないように気を付けている。それで、とりあえず日々は平和に流れていく。

それでも、生きていれば様々な経験をするわけで、そうすると私の中に湧いてくる様々な「考え」が生まれるので、それはブログに書いている。批判されたくない、というより、ブログ上で議論したくないので、コメント欄は閉じている。日記ではなくブログに書いている理由は、日記では「出した」感が無いからだと思う。私の中にまとまった形で生まれた「考え」を、私は外に出す必要があるようだ。「生まれた」ものは「出さない」と終わらない。日記では「出した」感がない。ブログには「出した」感がある。それが理由だと思う。

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