今日は読書記録ではなく、ちょっと考えた事を書きます。
私が、「私ってどうしてこうなのだろう?」と自分について深く内省する時というのは、往々にして、苦境に陥っている時であるな、と改めて気づいた。
当たり前といえば、当たり前なのですが。
私は、人生が調子よく進んでいる時というのは、あえて内省なんかしないのです。
私が平常時(人生が調子よく進んでいる時)に、内省を行わない理由は、一応あるのです。それは後述するとして。
内省好き、という人がいますよね。
自分の事を掘り下げて考えるのが好き、自分についていつもいつも考え続けていたい、そういう人。占いやスピや自己啓発が大好きな人。
そういう人は、四六時中、「私ってどういう人間だろう?」と私について考え続けている。それを「内省」と呼んでいいのかどうか分からないけれど、便宜上、それを内省と呼ぶのなら
内省好きな人は、人生が調子よく進んでいる時でさえ、内省し続けているわけです。
そうするとどうなるかというと、
せっかく人生が調子よく進んでいるのに、不必要にいらぬ内省を続けることで、
逆に人生が悪く進む事もあるのではないか、と私は思うのです。
下手に不要な内省をすることで、人生を悪い方向に進め、自分を苦境に陥れているのではないか、と思うのです。
基本的に、内省することは良い事なわけだけれど、
する必要のない「内省」も、この世には存在するのではないか、と思うのです。
苦境に陥った時に私が内省する時、
そこに「苦境に陥ってしまった」という紛れもない事実があるので、
私は、自分の落ち度を認めざるをえないし、
自分のその落ち度を反省し、改善するように努めざるを得ないわけです。
もちろん、人によっては、苦境に陥った原因を、自分以外のものに転嫁する人もいます。
運が悪かったから、とか、自分以外の誰かが悪かったとか。
そういう性分の人は、たとえ「苦境に陥ってしまった」という事実を突きつけられても、
それでも、反省も改善もしないですが、それは他人の事なので、ここでは深く書きません。
私が言いたいのは、
私は、平常時に、自分の欠点を認める事は、無理だ、という事です。
誰かから批判されたり指摘されたとしても、それを認める事は不可能です。
私が、自分の欠点を認め、反省し、改善の努力をするのは、自分の欠点故に自分が失敗し苦境に陥った場合のみです。
苦境に陥った、という事実だけが、私に、私の欠点を認めさせる事ができるのです。
それを考えると、
苦境に陥ってもいない平常時に、いくら内省を行ったとしても、
そこに、自分の欠点を見出すこと、そしてそれを認めることは、不可能です。
であれば、平常時に行う内省というのは、どういうたぐいのものなのか。
おそらくそれは、本当に自分に必要な内省、自分の心の事実を見つめるたぐいの内省では、ないと思うのです。
平常時に行う内省というのは、自分の心のすり替え作業に近いのではないでしょうか。
すり替え、というか、演出、というか、自己満足、というか。
平常時に行う内省というのは、
自分の心の真実を認める作業、ではなく、
自分が認めやすい形に自分の心をうまくすり替えて把握する作業、ではないかと思うのです。
つまり、
平常時に内省を行えば行うほど、
私は、自分の心を、自分が認めやすいモノに、うまく脚色して把握する作業を、行ってしまうのですね。
平常時に内省を行えば行うほど、私は、自分の本当の心から、かけはなれた「自分像」を、自分だと思い込む事になるわけです。
そして、それは、本当に認めなければいけない自分自身の欠点からは、ずっと目をそらし続ける事になるわけです。
結論を書けば、
私は、苦境に陥った時のみ、内省を行うようにしている、という事です。
平常時に、やれ占いだ、スピだ、自己啓発だ、と、「本当の自分って何なの?」と自分探しは、やらない、という事です。
「本当の自分」を自分で把握できるのは、自分が苦境に陥った時だけだ、と私は思っています。