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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

「発達障害児がクラスにいる。対応方法を教えて欲しい」というご意見について。

日々の思い

 先日、こんな内容の記事を読んだ。「発達障害児が子供と同じクラスにいるのだが、先生はその子への正しい対応方法を教えてくれないので、子供達は困っている。発達障害児の子は誰かを見つけてしつこくつきまとい、つきまとわれた子が嫌がるとすぐに泣く。そして、しつこくされていた子のほうが先生から叱られる。しつこくされてうっとおしい上に、先生から叱られるから、もう、クラスの子は、障害児の子と関わらないようになってしまっている。色んな子供がクラスにいるのは良い事だが、障害児への関わり方を教えずにただクラスに置く、というのは、その障害児の子にとってもよくないし、周囲の子供達も困る。先生は、障害児への正しい対応方法を生徒に教えるべきだ」というようなものだ。

 仰りたい事はとても良く分かるし、その通りだなあと思った。

 親の私自身が、時に子供からしつこく絡まれてしんどい思いをしている事は、このブログで書いてきた通りだし、ここにも書かれているように、ウチの子も、自分がしつこく人に絡んでおきながら、相手が自分の期待通りの反応をくれないと言って激しく泣き出す。でも、息子の期待通りの反応のレベルが天井知らずに高いので、とても息子を満足させるレベルの反応などできない。しつこく絡まれ、挙句の果てに泣かれ、しんどい事この上ない。

 その記事には「先生は、障害児への正しい対応方法を他の生徒達に教えるべきだ」と書いてあったが、それは無理だろうと思う。障害児への正しい対応方法など、無いからだ。しいて言えば、誰かが耐えるしかない。ただただ忍耐。しつこくつきまとわれるのなら、しつこくつきまとわれる事に耐える。つきまとわれる事がこの上なく不快でも、それが障害児の要求なら、ただただ忍耐してひたすら耐え続ける。拒否しない。永遠に続くかと思う時間、ひたすら受容し続けると、障害児が得心する瞬間がいつか来る。障害児が得心すれば、つきまといは終わる。仕組みと言えばそれだけなのだ。障害児が納得するまで、満足するまで、もうお腹一杯になるまで、誰かがその子の要求に応え続けるしかない。

 もし、障害児への正しい対応方法があるとしたら、こちらがひたすら忍耐し、障害児の要望に応え続ける、シンプルにそれだけだ。巷には、ちょっとした工夫、とか、声掛けとか、言葉じゃなく絵、とか、思いやり、とか、アレコレ言われているけれど、全部その場しのぎの間に合わせに過ぎない。そんな小手先の技を駆使したところで、根本的には何も解決しない。誰かにつきまといたい、と思っている障害児なら、明日もまた誰かにつきまとう。つきまといが終わるのは、その子がつきまといに十分満足した後だけだ。コレ、と思った事に対する障害児のしつこさは、健常者の想像を遥かに超える。満足するまで絶対に終わらない。きつい体罰を加えれば一時的には止めさせる事は可能だが、副作用として精神障害を生んでしまう。

 「正しい対応方法さえ教えてくれたら、子供達も平和に障害児と共にいられるのに」という意見は正論だが、正論には往々にしてありがちな事で、現実的には実現不可能なのだ。教室で、先生が生徒に説明できるような「正しい対応方法」は存在しない。

 でもだからといって、発達障害児がいるクラスになってしまったら厄介だな、という帰結になるわけではない、と私は思っている。ウチの子は、クラスで全く迷惑をかけないし、本人も困っていない。何故なら、ウチの子は、困った行動を、私に対してしか行わないからだ。というか、私に対して行い、私がそれに十二分に応えているので、それで息子は充分充足していて、外でやる必要がないのだ。息子は外では穏やかだし平和だし、困った行動は全くしない。それは幼稚園の頃からずっとそうで、どんな保護者会に行っても懇談会に行っても、息子に関しては「困った事は何もないです」と担任から言われ続けている。それは、息子が、困った行動を私に対してだけ行い、私がそれを息子が満足するまで受け入れ続けているからだ。だから息子は、外では困った行動はしないのだ。

 これは私見だが、発達障害児が外で他人に迷惑をかけるという事は、家で十分に要求を満たせていないからだと私は思っている。家で親が、子供の要求に十二分に応えてやっていれば、子供が過剰な欲求不満を抱える事はなくなり、外で他人に迷惑をかけることは減るのではないかと、私は思っている。勿論、障害の種類にもよるが。

 結局のところ、親が犠牲になればそれで済む、という話だと思うのだ。親が人身御供になれば解決するのだ。教室で他の生徒に迷惑をかけている発達障害児がいたら、教師は勇気を出してその親に対し「あなたが犠牲になって下さい」と言うしかない。でも、現実問題、そんな事は言えるはずはないから、この問題はうやむやなまま解決されないのだ。

 あまりにも救いのない話に聞こえるだろうか。いや、実際のところ、そんな事はない。私の息子は、私にしか困った行動はしてこない、と書いたが、私へのその困った行動も、年齢が上がるにつれて、減ってきているからだ。彼の困った行動の頻度は、乳幼児の頃を100すれば、今は1か2、程度だ。おそらく成人するまでには、0になるだろう。

 これは私見だと繰り返し書いているが、本当に私の個人的見解なので、否と感じる方は怒らないで欲しい。私はこう思っている。発達障害児の困った行動は、親が犠牲になって引き受け続ける、受容し続ける事で、年齢と共に減っていき、いずれ無くなるのではないかと。私の経験上はそうなので。つまり、発達障害児の困った行動は、親が受け取り忍耐し続ければゼロにできる。発達障害児への正しい対処方法は?と問われたら、私はそう答える。

 ところで、犠牲、という言葉は実は不適切なのだ。むしろボランティア精神、とか、博愛精神、とか、本当はそっちに近い。犠牲、と言うと嫌々やらされている感が強いが、そういう嫌々感は子供に見破られる。博愛精神のように、こちら側に、自発的に子供を受け入れる気持ちがあって初めて、子供は得心してくれる。こちら側がどこかで目覚め、自分は子供の犠牲なのではなく、子供を忍耐強く受容し続ける事で自分自身(こちら側)が根本から作り変えられている事に気づきそこに大きな意味を見出せたら、子供も変わる。けれどこんな事を、親以外の誰ができるだろうか、学校の教室で誰がやれるだろうか。無理だと思う、だからやはり、「親」なのだと私は思う。

嘘とお金

日々の思い

 嘘をつくと信用を失くすのに、それでも日常的に嘘をつく人がいて、あれはどうしてなんだろうと思っていたら、「依存症の人には嘘は付き物」と知って、ああそういう事か、と思った。その嘘つきの人も、多分、依存症体質なのだと思う。

 その人に関して言えば、特別な何かに特化して依存しているわけではなく(例えば、ギャンブル依存症とか)、しいて言えば「幸せ依存症」という感じなのだ。自分が幸せでいる、という状態をいつもいつも求めている感じ。その為に、時に買い物依存っぽくなったり、恋愛依存っぽくなったり、セミナー依存症になったり、占い依存症になったり、、、。どれも「今、幸せでいたい。幸せを感じていたい」という依存症なのだと思う。そして、日常の現実生活と、自分の送りたい生活との間に齟齬が生じた時は、嘘でとりつくろう事に躊躇しないのだと思う。そしてその頻度は、依存の度合いに比例して高まっていくのだろうと思う。

 私もわりと嘘をつくし、嘘はダメだと優等生ぶるわけではないが、嘘をつく時は少なくともバレないように注意深くつく。当然だが、あまりにも平易に頻繁に不注意に嘘をつき続ければ、早晩必ず信用を失うからだ。

 世の中にお金で買えないものは最早ない、と言ってもいいかもしれない。お金があればどこまでも高価で高度な治療を受けられるし、無ければ救える命も救えない場合がある。お金があれば腕のいい弁護士を雇えるし権力を味方につける事も可能で、それによって有罪が無罪になる例もある。命も正義も、お金で買える。でも、一つだけお金では買えないものがあって、それが信用だと思う。

 依存症の人は、自分の依存を責められたくない、止められたくないから、依存行動を隠す為に嘘を量産せねばならず、信用を失っていく。信用を失うか、依存を止めるか、の二者択一なら、信用を失うほうがマシだと思ってしまうのだろうと思う。

 信用を失うとどうなるのか、というと、、、、どうなるのだろう。信用を失えば、仕事につく事が難しくなる、これが一番大きい弊害かもしれない。私も、誰かに仕事を紹介する時、誰かに縁談を勧める時、信用できない人は紹介できない。でも、もしその人が一財産築いていたり、親からの遺産で食べるのに困らなければ、たとえ信用を失っても、生きていけるだろう。何かに依存して馬鹿らしい嘘ばかりついている人でも、財産があれば周囲から、「あの人はああいう人だから」と黙認され、大きな問題にはならないだろう。

 とすれば、信用はお金では買えないが、お金があれば信用は必ずしも必要不可欠なものではない、という事になる。世の中、お金で左右できないものは、何もないのかもしれない。

 

生花の香り

日々の思い

 雨が長く降った。寒かったし、桜も相当こたえただろうと思う。やっと晴れた昨日は、文字通り洗われたように鮮やかな姿を見せてくれたが、中には風に揺れて散ってしまう木もあった。ハラハラと儚く。そして、それはそれで美しい。ちょっと銀行へ、ちょっと買い物に、と家を出るたびに、ついつい公園の桜に見とれてしまい、佇んでしまい、ベンチに座り込んでしまい、気づくと容易に一時間たっていたりする。花に見とれて一時間。桜の力はおそろしい。子供の学校が始まったので、私が時間に追われなくなったせいかもしれない。朝7時過ぎに子供を見送ったら、夕方5時か6時まで全て私一人の自由時間になったので。とてものんびり暮らせている。学校の有難さを噛みしめる。学校なんてあって当たり前と思ってしまうが、世界には学校など無いか、あっても機能していない国が山のようにある。学校がなければ私など、花に見とれる余裕は無いだろう。

 どうして花が好きなのか、分からない。何の役にも立たないのに、見ているだけで良い。そこに在ってくれるだけで良い。ベランダには常に、カランコエを咲かせている。玄関には切り花を欠かさない。生花を飾るようになったのはいつからだろうか。結婚する前にはそういう習慣は無かったから、結婚後のことだと思う。いつの間にか、家の中に生花が無いと何か足りない気持ちになるようになった。

 家に飾る花は香りのないものを好む人も多いが、私はむしろ、強い香りの花を選んでいる。薔薇やストックなど。白いストックを束にして飾ると、玄関だけでなく家中に香りが漂う。家中だけでなく、家の外にも、玄関の扉を開ける前から香りが漂い出ていて、家に帰って来たという気持ちになる。瑞々しく、濃厚で、重たいけれど爽やかでもあり、甘く、不思議と鼻腔をくすぐるスパイシーな匂い。

 アロマや香水の香りは、時間がたてば飽きてしまう。飽きる前に慣れて香っている事を感じられなくなってしまう。化学的な合成品ではなく生の花から抽出したナチュラルなものであっても、アロマや香水の香りと、生花の香りは全く違うのだ。生花の香りには、飽きる事も慣れる事もない。何故なら、生花の香りは、同じ花であっても、刻々と変わっていくからだ。買ってきたての瑞々しい香りと、朽ちていく寸前の退廃的な香りは、全く異なる。生花は生きているからこそ、刻々とその形も香りも、変えていくのだ。

 家にいて、ふと「あ、いい香り」と気づく。その時の幸福感は、ちょっと他では探せない、本能に根差した何かだと思う。

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