書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

ただ姉を見ている。

 人のことは見くびってはいけないし、かと言って、過大評価してもいけない。正確に人を見る、という事は案外難しい。

 私には一人姉がいる。色白で華奢、大きな目、ミス○○(学校名)に選ばれた事もある。私よりも年上なので、生育過程においては常に経験値が私よりも多く、私は姉には全くかなわないと思っていた。性格は、何でも先々手を打つ現実的な私に対し、どこかお嬢様然として鷹揚に構えている姉。経験値は私よりも多く、だからこそいつも上から目線で話すわりには、何も教えてくれず、面倒も見てくれない。基本的にはあまり家にいなかったし、私の事など物の数にいれていなかったと思う。時間も約束も守らない人だった。すぐバレる嘘を平気でつく人でもあった。

 美しモノ好きの母は明らかに姉を贔屓していて、姉に約束をポカされ待ちぼうけを食わされ不満を言う私を逆に叱った。「あなたは本当に時間、時間とうるさいわね。そんなに急いでどこへ行く、よ。そんな風に時間、時間とキリキリされたら、周囲が気詰りでたまらないわ。お姉ちゃんぐらいノンビリできないの。ああいうノンビリした性格のほうが人から好かれるわよ」と。理不尽だなあと思ったけれど、私は母には逆らわない主義だったので、何も言い返さなかった。

 まあ、私には、そういう姉がいるのだが。

 私も姉も中年を過ぎ、この年になってみて改めて姉を見る時、私は姉のことを、過大評価していたのかもしれないと思うようになった。

 私よりも何でも出来、私よりも何でも知っていると思っていた姉だが、それはただ私よりも早く生まれた事からくる経験値の量の差であって、姉自体の知力能力が私よりも勝っている事の証明ではなかったのだと、今更ながらに気づく。むしろ今姉と話していると、思った以上に何も知らない事、考えの浅い事に驚く事が多い。特に姉は今流行りの「私自身が幸せである事が何よりも大事。私が幸せでありさえすれば、家族は自然と幸せになるのだ」という、自己啓発系なのかスピ系なのか分からないが、あの手の考え方に染まっていて、理屈に合わない自己中を正当化して生きている。年を重ねても相変わらず、嫌な事から逃げ、楽しい事だけを追いかけている。「私はこうしないと気が済まないの」というのが口癖で、相手の都合もおかまいなしに自己中を押し付ける。美しかった外見も、美しかった過去があるだけに衰えが目立ち、荒れた肌やきつく染めた髪が痛々しくさえある。上から目線の話し方だけは変わらない。

 姉の行動のあまりの無謀ぶりに、あれではさすがに世間が通らないだろうと不安になった私は、最近、一度母に相談した事があった。母は私の話を聞いた後、「お姉ちゃんには困ったものねえ。あの子が大学を卒業して社会人になる時、お父さんがとても心配していたのを思い出すわ。△△(姉の事)は大丈夫だろうか、あんな頼りなさで社会でやっていけるのか、って。でも、しっかり者のあなたがついてくれているから、お母さんは安心してる。〇〇ちゃん(私の事)頑張ってね。お姉ちゃんの事、宜しくね」と。姉を育てたのは私ではないのに、何故私が頑張らねばならないのか。姉を増長させて育てたのは母なのだから、母がなんとかしてくれるのが筋だと思うのだが、やはり私はいつものように、母に反論はしなかった。しても無駄だから。

 それにしても。父が姉の性格を不安がっていた、などと言う話を、私は初めて聞いた。私の中では、姉が完璧な人で、私こそができそこないであったのだ。でも親から見たら、逆だったようだ。それならそれで、そう言ってくれたら良かったのに。私はこの年になるまでずっと、姉に対し、謂れのない劣等感を持って生きていたのだ。姉の事を「勝手な人だな」とは思っていたが、「出来ない人・頼りない人」とは思っていなかった。親が大人の目から見て、姉の出来なさに気づいていたのなら、私にも言って欲しかった。そしたら姉の勝手さを我慢するのがもう少しラクだったと思う。姉に比して自分が冷遇されている事に気づいても、それは私が出来そこないだからではなく、姉の出来なさに気づいていた両親が姉をフォローせずにはいられなかったからだ、という事実に気づいていただろう。私はフォローする必要がないから放っておかれたのだ、と分かれば、放っておかれる事も理不尽には感じなかっただろう。姉の嘘にも、イライラせずに済んだだろう。私は、姉の事を過大評価せずに済んだだろうと思う。

 でも、姉のことを、「過去に思っていたほどには『出来る人』ではない。むしろ、『出来ない人』なのだ」と気づいた今、私は逆に危惧している。私は姉を、逆に、過剰に見くびってしまうのではないか、という事に。

 私は姉のことを、見くびりたくはないのだ。過大評価してしまっていた事には気づいた。でも、過小評価もしたくないのだ。私は姉を、正当に評価したいのだ。そして改めて、人を正当に評価する難しさを思い知る。ちなみに、ここで私が書いている「評価」とは、ジャッジする事ではない。相手がどういう人なのかをできるだけ正確に知る、という事だ。相手の人となりを知るけれども、それに「正しい」「間違い」というジャッジはしない。「出来る事」が正しいわけでも、「出来ない事」が間違っているわけでもない。出来ない事が間違いなら、出来ない事が山のようにある発達障害の我が息子の存在自体が、間違い、という事になってしまう。私は、姉をできるだけきちんと知りたいのだ。

 姉をきちんと知る事ができれば、姉の言動によって、いちい私が傷つけられる事もなくなる。姉に対し、適切に対処する事ができるだろう。それはとりもなおさず、私自身の安心に繋がるのだ。私はあくまでも私自身の為に、姉を正しく知りたいのだ。姉に対して何か言いたいとか、ジャッジしたいというわけではない。

 にしても、親も老年で、最早「早く言ってくれたらよかったのに」等と、親に責任の一端を押し付ける事もできない。私は、私の判断で、姉を正当に評価しなくてはならない。そういう目で注意深く姉を見る時、人というものの矛盾の多さに驚く。姉は良い事も言うし良い事もする。と同時に、不適切な事も言い不適切な事もする。どこを見るかによって、評価はその時々で変わらざるを得ない。バランス良く見る、と言っても、そのバランスが難しい。そして、姉の不適切さに気づいたからと言って、何か助言めいた事を言うこともできない。そんな事をしても、姉が聞くわけがなく、反発されて終わるだけだから。

 ただ、何も言わずに見る、という事は難しい。何か働きかけをする前提で見るのであれば、目的がある分、ラクなのだ。何もできない、でも妹として、無視もできない。過大評価もせず、見くびる事もしないで、私はただ姉を見ている。