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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

世の中を理屈で割り切ると危険だと思う

日々の思い

 朝から風が強い。こういう日は頭にピッタリしたベレー帽を被っておくと、髪がぐちゃぐちゃにならなくて便利。ベレー帽は好きでいくつか持っている。黒や紺等の濃い色より、白やベージュ等の淡い色のほうが意外としっくりくる。年のせいか。。今日書くのは、甚だ具体性に欠けた抽象的な事で恐縮なのだが、最近よく考えるので、書き残しておこうと思う。

 自分の強みを知りましょう、とか、自分の傾向を知りましょう、とか、本質を知りましょうとか、自分掘り下げが流行だ。掘り下げて自己解放をして、こうやってああやると、人生がよくなるらしい。可能性がぐぐんと広がって成功もするらしい。

 私は、そういうのは信じていない。

 信じない理由はいくつかあるが、何と言っても、それを提唱している方々が幸せそうには見えないし(エネルギーが枯渇して疲れ切っている状態で笑っているように見える)、実際にさして成功もしていないからだ。不遜な言い方をするならば、何にもしていない私のほうが、状況としてはマシなぐらいだ。

 それと、仰る通り「こうやってああやれば」計算でいけばそうなるのかもしれない、理屈で言えば幸せになる筈なのかもしれないけれど、それはあまりにも、人生における不確定要素を無視しすぎているように思うからだ。不確定要素が次々と起こる人生で、こうやったから必ず狙った通りの結果になる、なんて事はあり得ない。理屈をあまりにも「お勉強」してしまうと、柔軟性がなくなって、不確定要素に対して適切な対処ができなくなる危険すらあると思う。

 大事なのは、自分掘り下げとか、自己解放とか、本質を知るとか、そういう「固定化したもの」ではないと思う。これさえやれば大丈夫、という固定化したものを見つければ安心できるから、そっちが大流行だけれど、今現在動いているこの空気を的確に感じて、的確に対応していく力のほうが、むしろ大事だと私は思う。とりあえず固定化した理屈は横に置き、柔軟に今現在にフォーカスして動くこと、が大事だと私は思っている。何でも理屈で割り切るのはとても楽だけれど、不確定要素に理屈で対処していたら、思った通りにはならないから苦しむことになると思う。

花粉症とめぐりズム

日々の思い

  20歳の頃に花粉症を発症し、それ以来ずっとほぼ一年中調子が悪い。杉だけでなく、ブタクサやらヒノキやら、あらゆる花粉にアレルギーなのかもしれない。

 不思議なのは、若い頃は鼻にアレルギーが出ていて目は全く大丈夫だったのだが、30代で出産して以来体質が変わったのか、今度は鼻は全く大丈夫で、目に不調が出るようになった。いつもなんとなく目の中がコロコロしていて、専用の洗浄液で洗っても洗っても治らない。いつも微妙に痒い。酷い時と、そうでもない時があるので、酷い時は花粉症の薬を服用する。飲めば楽になるが、同時に眠くなってしまい、一日中眠気との戦いになる。

   薬を飲まずに、この目の不調を治せないものか、とずっと考えていたのだが、最近その答えを見つけた気がする。偶然頂いた「めぐりズム」をして寝たら、至って調子がよかったのだ。

   めぐりズムというのは、「蒸気でホットアイマスク」だそうだ(袋に書いてある)。使い捨ての紙のアイマスクに低温カイロがしこんである、みたいなものだ。カイロは40度くらいになってそれが30分続く。いろんなアロマも選べる。私は「完熟ゆずの香り」を愛用している。

 寝る時にそれをして寝ると、筆舌に尽くしがたいぐらいに気持ちがいい。目が「おお、おお」と感激しているのが分かる。目の周りにうっすら汗をかく時もある(かかない時もある)。汗をかいた時は、ことさら疲れがとれた気がする。そして大事な事は、めぐりズムをする前は微妙に痒くコロコロ感があった目が、めぐりズム後には、スッキリしている事だ。どういう効果なのか分からない。血流がよくなるからなのか。

 めぐりズムを装着したまま眠ってしまう事も多いのだが、眠りながら無意識にはぎ取っているようで、めぐりズムをつけたまま朝起きる、という事はない。めぐりズムをせずに寝ると、朝起きた時の目やにが酷いのだが、めぐりズムをして寝ると、目やにもないし痒くもない。その日一日中調子がいい、というほどではないが、午前いっぱいぐらいは大丈夫だ。

 別に市販の商品を使わずとも、タオルをお湯で絞って目に当てればいいだけの事かもしれないが、タオルだと5分もすれば冷めてしまう。めぐりズムは30分温かいままで続くので、多分、それが良いのではないかと思っている。

 ただ、めぐりズムを付けた顔はあまり見た目が良くないようで、息子は「鬼みたい」と言って嫌がる。というのも彼は、寝る前に必ず私の部屋に来るのを習慣にしているからだ。私の部屋にある、亡くなった身内達の写真に手を合わせ、私の部屋にあるヨガマットでストレッチをやり、私とひとしきり何やら話す、というのが、寝る前の彼の習慣なのだ。その時、すでにベッドに入った私がめぐりズムを装着していると、「鬼みたいで怖い」と言われる。仕方ないのでスルーしている。

雛人形あそび

日々の思い

 小さい頃は母が、毎年お雛様を飾ってくれた。母の実家から持って来た鄙びた七段飾りだ。木の大きな箱から、白い紙に包まれたお雛様を、一つ一つ取り出して飾り、時期が過ぎればまた、一つ一つ紙にくるんでしまっていく。大きな階段も外して片づける。今思うと相当の手間だったと思う。今の私にできるかと言われたら、絶対にできない。

 私が本好きなのは、幼い頃からで、3歳にはもう一人で絵本を読んでいた。日本の昔話が好きで、安寿と厨子王、瓜子姫、ものぐさ太郎などなど。。。本に挿絵はあったがそれは2次元の世界だ。雛人形のおかげで、私は、日本の昔話の世界を、実体験する事ができた。大人からしたら雛人形など小さいものだが、3歳の子供からしたら、とても大きい。実物と変わりないぐらい大きく感じた。まだまだお話の世界と、実世界との区別がはっきりとはついていない年齢の私は、3次元の雛人形を触る事で、昔話の世界をリアルなものとして経験していた。

 墨で描かれた繊細な目の表情、本物の着物の手触り、髪の広がりと重さ、随身(家来たち)の弓矢、牛車、五人囃子の楽器の仔細、、。私は、様々な雛飾りを畳みにおろしてきては、人形遊びをしたものだ。母は私がそういう事をするのを、わりに許してくれる親だった。内裏雛で安寿と厨子王ごっこもしたし、三人官女で瓜子姫ごっこもした。牛車と従者でものぐさ太郎ごっこもした。どれも、玩具にはない本物の気配を持っていたから、それはもうごっこ遊びの域を超えて、物語の世界の中に私を生きさせる事ができた。

 今、大人になって歴史小説を読む時、お殿様の姿も、お姫様の姿も、お供の者達の姿も、町人の姿も、家財道具の様子も、私はまるでその時代に自分が生きていたかのように思い出す事ができる。そこに私が思い出すイメージはすべて、かつて遊んだ雛人形の世界なのだ。

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